最果ての陽だまり
こんな夢を見た、と碧依が言っていた。
彼女の死体には綺麗な笑みが硬直し、貼りついていた。
さっきまで私を讃えてくれていた表情だ。瞼が半分降ろされ、優しい眼差しをくれている。さっきよりも口角は下がっているが、笑みとしては保たれている。健康的な白い歯が覗いていた。彼女の瞳の中に私を探すが、虚空を映すばかりで、私の姿は判然としない。
私の問題は全て解決したので、死のうと思います。
そう言って彼女は、私に抱かれて目を閉じた。彼女の陶器のような白く美しい肌には、死ぬ気配など窺えない。
「死ぬようには見えないのだけどね」
彼女は目をゆっくりと開き、こちらに微笑みを向けた。
私が死んだら、悲しむ人がいました。それはずっと昔から決まっていて、私がどんな行いをしようと、私が死んだら泣いてくれるのです。
彼女の瞳からは、雫が溢れ出ようとしていた。
それを考える度に私は泣きだしそうになったものです。私はいつだって死にたかったのですから。こんな私のために泣いてくれる人が、不憫で、でも私は嬉しくて、その人が愛しくて。
「なぜ死のうだなんて思ったのだい」
私は、幸せとは程遠い場所にいたのです。それは私の周りの環境がそうさせたのではありません。私自身がそれを求めてはいなかったのです。
「僕たちと過ごした日々には、幸せを見出せなかったわけだね」
思っていたことが口を衝いて出た。言葉にしたら、心に閉まっておくよりもずっと胸が痛かった。
彼女は頭を振った。さらさらの長い髪が私の腕をくすぐる。
貴方たちと過ごした日々は確かに幸せでした。陽だまりのように温かかった。思い出すだけで、死にたくなくなってしまうのよ。
でも私は死にます。私が死んだら悲しむその人は、もうこの世界から旅立ったから。
なにかに絶望したのではなく、ただただ穏やかな気持ちで、死にたいと感じ続けてきたのよ。
彼女の言葉はいつだって私を励ましてくれた。不安な気持ちも温めてくれた。
そう、語弊があったわ、と彼女は呟いた。
私は幸せを欲していたわ。でもその幸せは、生きていても手に入らないようなものだったの。誰と一緒に居ることができても、何かを達成しても、それをたくさんの人に褒められても、叶わない幸せだったの。
「それは抽象的な幸せのようだね」
彼女は微笑みで同意を表した。
人智を超えた向こう側に、私の幸せはあったのです。人が生きていく上で感じる不安や懸念などの、恐怖にも似た感情に苛まれることなく、安らぎ癒される場所。それが私の望んだ幸せ。
「死ねばそこに行けるのかい」
死後の世界にまで、時間の流れや未来への不安はいらないでしょう。
彼女が手を伸ばし、私の頬に触れた。
私はその手を取って、彼女を感じられるように、彼女の手に頬をすり寄せた。
これが彼女の体温だ。今まで感じていた温もりだ。それが今、失われようとしている。
私は一度目を閉じ、数秒後、目を開けた。
込み上げてくるものを抑えるべく、一度息を吐いて、そして吸い込む。
「つまり、死ぬことは君にとって目的ではなく手段なのだね」
少しだけ声が震えてしまうが、できるだけ気丈に振る舞った。
そういうことね。
「本当に死ぬのかい」
すぐにでも死ぬわ。
「僕たちを置いて」
貴方たちを置いて。
「僕たちはそこにはいないから、きっとそこに陽だまりはないよ」
彼女はそれを聞いて上品に笑った。
そして、なんとも嬉しそうに、生き生きとして言うのだった。
私はこれからずっと深い眠りにつくわ。
私が思い描いた理想の場所に会いに行くの。
夏の虫の鳴き声を聴きながら、林に寝転んで、瞬くたくさんの星を数えるの。
高い高い澄んだ青空と紅葉を眺めて、夜にはススキの間を縫って、鈴虫と共に大きな月の裏側に思いを馳せるの。
ポツンと立つ街灯の下、降ってくる雪がオレンジ色に染まっているのを眺めながら、息を吐いたり、誰かを待ってみたりするの。
丘の上の大きな一本の桜が咲き誇っているのを、青空を背景に見上げながら、出逢った人とお別れした人のことを思い出すわ。
そして貴方たちの夢を見て、陽だまりにも会いに行くのよ。
「なんとも幸せそうだ」
えぇ、きっとね。
「でも僕は悲しいよ」
そうだとは思ったのだけど。
「いつでも死ねるよ」
今死ぬことが大事なの。
「提案は吞めないようだね」
ごめんなさい。
「僕たちとの思い出を忘れないようにね」
忘れられないものばかりよ。
「幸せだったよ」
私もよ。
「理想の場所に僕たちを思い出して」
やってみるわ。
「僕にも星を数えさせてよ」
えぇ。
「鈴虫とじゃなく、僕と月の裏側について話し合おう」
そうね。
「街灯の下では僕を待っていて」
素敵ね。
「桜の下では、僕たちが出逢った時のことを思い出すんだよ」
もちろん。
「そして今日のこのことも振り返ってみて」
忘れないわ。
「僕たちの子どもたちのことは気にしないで」
頼んだわよ。
「もちろん」
そう言って、私は笑ってみせた。
最期まで、貴方の顔を見ていてもいいかしら。
「ちゃんと焼きつけておいてね」
愛しているわ。
「僕も、愛しているよ」
そうして、ゆっくりと彼女の瞳から光が遠のいていった。
頬に感じていた体温は、もはや心細く、腕には力が入れられてはいなかった。
彼女がくれていた幸せな時は終わってしまったのだ。私も連れて行って欲しかった。
「僕だって、君が死んだら悲しいんだよ」
親の死には敵わないな、と思いながらひとり呟いた。
でも子どもたちにとっては、君の死はとても辛いことなんだよ。君だって、子どもたちの死には耐えられないだろう。子どもたちもそれをわかっていても不思議じゃないんだよ。君がそうだったようにね。
硬直してしまった微笑みはずっと見ていたかったが、そろそろ瞼を降ろしてやらなくてはならない。これからは私一人で子どもたちを守っていかなくてはならないのだ。悲しみに暮れているわけにはいかない。
「おやすみ」
そう言って、彼女の瞼を降ろした。
「ねぇ、パパ起きて」
「今日はお花見に行くんでしょ?」
「あっちに行ったらキャッチボールしようぜ!」
子どもたちは、僕の体を三人がかりで揺すり起こそうとする。碧依が見たと言っていた夢を、僕自身も見てしまった。その夢が思ったよりも切なくて起きる気になれない。
「ねぇ、パパー!」
「んー、ちょっと待ってくれよ」
そうは言ったものの、すぐ動けるわけでもない。子どもたちも、この程度では起きないことがわかっているのか、揺さぶるのをやめない。
「そんなにパパのこと揺すったら、気分悪くしちゃうでしょう」
「でもパパ、置きてくれないんだもん」
「貴方も早く起きないと、お花見出来る場所、取られちゃいますよ」
碧依が起きるのを促してくる。あんな夢を見た後だからだろうか、込み上げてくるものがあった。僕はそれを悟られまいと、まだ寝床から這い上がろうとしない。
「ねえ、どこか調子でも悪いの?」
いつもだったら碧依に促されたら起きるのだが、それでも起きない僕を見て、異変に気づいたようだった。碧依が僕の顔を覗きこんでくる。
「熱はなさそうに見えるけど」
「この前碧依が言っていた夢を見たんだ」
心配をかけるのは気が引けたので、正直に言うことにした。
「夢って、私が貴方になって、自分が死ぬ夢を見たってやつ?」
僕は頷く。「陽だまりが居心地良すぎちゃったのかな」
切なさは残るけれど、碧依がここにいることが嬉しくて、しかしそれを直接伝えるのは気が引けたので、僕は茶化した言い方をしてしまう。
「いつでも死ねるからよ」
それだけを言い放ち、碧依はリビングに行ってしまう。
「さぁ、パパのことなんてもういいから、朝ごはん食べちゃいなさい」
こちらにまで聞こえてくる程の大きな声で、子どもたちの世話に取りかかる。
「パパはあんなだし、あなたたちには当分、私がついていないと駄目ね」
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