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あんたになんかくれてやらない

 職場の歓迎会もオンラインになって、普段の会食ではお子さんを思って参加しなかった方もいらして場の雰囲気もより和やかで、つくづく便利な時代になったなと感じた土曜日のこと。移動する手間もなく、料理の取り分けやら上司の飲み物の空き具合やらに気を回さなくてもよく、居心地よく過ごせるはずの会でした。

 長いこと職場の人との会食がなかったのですっかり忘れていましたが、笑顔を張り付けて当たり障りのない相槌を繰り返す自分がいることを、そしてそういう場での気まずい感触を、じわりと思い出しました。別に他人の話を聞くのはきらいではなく、そちらの方が気持ちが随分と穏やかではあるのですが、特に"優しい"ひとが気を利かせて私に話を回してくれた時などはもう、情けなくいたたまれない状態になってしまうのでした。相手を気遣わせてしまう自分も、上手く馴染めていない現状も、話を引き取ってくれる他人を求める期待も、どれもありありと感じていやになってしまうのです。

 どうしてこんな風になってしまうのだろう、と考えてみて思い至ったのは、私は自分について喋ることを避けているという現実でした。

 友人と話す時も、友人の出してくれたことについてああだこうだ言い、あるいは相手の話を促すようなことしか語らず、それ以外の相手だとどこまで踏み込めるのかがわからずただ表面的な反応にとどまってしまう。それは自分から相手に何も差し出さないようにしていることに他なりません。だから温情を向けられても戸惑ってしまうのだと。

 自分のすきなものは自分だけがすきでいられればよく、誰かに話したいと思いつくようなことな滅多になく、何かを話したくなるような相手も思いつかない。話を聞きたい、一緒に過ごしたい、そう思う相手はいるはずなのに自分は何一つ差し出さずにいる。相手を信じないような、相手を最初から見限ったような、そんな悲しい関わり方がしみついてしまったのでしょうか。

 そして、それでも何かを書きたいとつくづく思う私の傲慢さは、一体何を求めているのでしょうか。

「私のことなんて話してやらないよ」と目の前の相手には悪態をつき、「私のことばを読んで聞いて」と四方八方にせがみ続ける。そんな自分の都合ばかりを押し付けて独りよがりに生きていては、求めるものなど得られはしないのに。

 ひとつだって差し出せない自分には、誰も何も授けてはくれないのだと気づいたら、私の張り付けている薄っぺらい笑顔で、自分も相手に見限られるのだと悟ってしまい途方に暮れたのでした。

 

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