加宮

書くことを手放したくない私の記録。 真面目な顔をして書いたり、肩肘張らずに垂れ流したり。

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小説家になりたかった頃(ご挨拶)

 第一志望の大学に落ちて別の大学に行くことに決まった瞬間、道が開けたような気持ちになったのを今でも覚えている。ずっと一つの大学にだけ憧れて勉強もそれなりにしていたからとても悲しかったはずなのだけれど、行くことになった大学の名前や学部を改めて読み直すと「さあ、逃げずに文章と向き合いなさい」と言われているような気がしたのだった。  中学や高校で過ごしている間、一貫して自分が求めていたのは「特別」であることだった。何もない私は芸術という空間に凡庸さを抜け出せるのではないかと期待を

    • 無為なGWを弔ったけれど「『何にもしない』をするのさ」ってプーさんも言っていたのを思い出して泣いた

       世間を騒がすゴールデンウィーク、私も例に漏れず時間をもらうとなんだか自由と可能性を手にしたような万能感に包まれるなかで金曜の夜には笑っていたはず。なのに、なぜ、何も成せぬまま明日からまた労働に向かうほかないのだろう。n度目の後悔。タイムリープものの5話目あたりに描かれる失敗続きの主人公と肩を並べられるほどだろう。  やったことといえば朝からお酒を飲んだりドラマやアニメを見たりよく寝たり久々に髪を切ってもらったり。一応、片付けもしなくはなかったのだ、机の上の30センチ四方の空

      • 書き続けることだけが勝つことなのだ

         ひと目見たときはぞっとした。本当に文学に励む側の人というよりは浅はかな、けれども確かなコンテンツ性というかカリスマ性というかその類のものは持っている、ポップな感じの人だったから。そういう人が本を出しているなんて。そして同時に感じた。ちゃんと自分の形で泳ぎ続けた人が「勝つ」のだ、と。  Kindleでたまたま見かけた自己啓発本の一つに見知った名があった。大学時代に所属していた文芸サークルでほんの少しだけ出会った人だ。人見知りの私にも優しく、互いになんとなくサークルの「熱い」

        • 結婚したくないのに結婚を目指している

           もう結婚なんて懲り懲り。どうせ合う人なんて、あるいは合わなくても許せると思えるような人なんて見つからないだろうし、と心では思っていながら婚活をしている。なぜなのか。それは親が亡くなってしまったらこの世に一人きりになってしまうからで、そのことを心底恐ろしく感じているからだ。とても自分本位だけれど、包み隠さず正直に言えばこの通りなのだから仕方がない。  友人のひとりはいつも「本当にすきな人にまだ出会っていないだけだよ」と言う。けれど、ここまで生きてきて出会わなかったような相手

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          4本

        記事

          孤独という幸福

           ひとの孤独と幸せについて考えることが増えた。私はもう慣れてしまった孤独と、今まさに向き合うひとたちと話をして触発されたのだろう。あるいは、私も両親を失えば天涯孤独になるのだと身につまされているからなのかもしれない。  人間は本質的にいつだってわかり合えない孤独なものであって、だからこそ誰かと一緒にいる、どこかに所属している、という幻想に縋ってなんとか淋しさをごまかしている。そう私は信じている。でも、幻想を捨てて孤独に帰れば、悲しみと引き換えにほんものの気持ちを見つけること

          孤独という幸福

          ひと粒の星屑よりも

           Twitterを始めたのは大学生の頃で、なんだかんだミーハーな私はいつもどこかで「いいねをもらえる私」を夢見ていた。起きた出来事をつぶやくにも、好まれるのはこんな感じかな、とか、ここらでちょっと抽象的かつセンチメンタルな内容でもぶっこんでみようかな、とか、すぐに飽きて言いたいことしか言わなくなるのだけれど、時にはミーハー心から作為的なつぶやきをしたこともあった。  だから時々鞍替えというか、つぶやくジャンルを変えることがあって、文学かぶれなつぶやきを続けたタームのあとには

          ひと粒の星屑よりも

          ひとり、を軽やかに

           独り身になった私の抱えていた気持ちは大半が不安と呼ばれる類のもので、親が死んでしまったら、友人たちが子育てに追われるようになったら、新しい家族を持たない自分に自信をなくしたら、と途方に暮れることがよくあった。もともと一人遊びがすきな子どもだったのに。たまたま世間話をする空気になれば即座に居心地の悪さを感じてしまう質なのに。  どうしてこんな風に哀しくならなければいけないのか、考えてみると答えは一つにまとまる。今ある楽しさが失われるのがただ怖い。親もいて、友人たちとも気軽に

          ひとり、を軽やかに

          失ったから、苦しいけれど。

           Twitterでご協力頂いた、その形をイメージした小説を書くというのも、新人賞に向けての作品も、なんとなく書けずにだらだらと過ごしていたら、急転直下、なんと離婚をすることになって、まったく途方に暮れてしまった。  そのことについては語れるようになどちっとも消化はできていなくて、自分の手帳に「離婚」の文字を書くことすら怖くてできなかった。心配した友人たちが毎夜、長電話で話を聞いてくれて励ましてくれ、いつもは億劫にしか思えなかった仕事にも不自然なほどに精を出し、終わりにする覚

          失ったから、苦しいけれど。

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          小説「ざくろ」

          小説「ざくろ」

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          小説「ごちそうさまでした」

          小説「ごちそうさまでした」

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          小説「かわいい」

          小説「かわいい」

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          物語は、ここに

           この間、久しぶりに小説を一本書いた。  数えてみると六年ぶりだった。前は書くことだけが全てだと信じて勇敢に臨んでいたのに、いつしか足が(手が)遠のいてしまっていた。最後まで書ききった時の気持ちは「なんだ、案外できるものだ」というものだった。  自分の気持ちに蓋をしてしまうのはひょっとすると自分なのかもしれないし、同時に自分を甘やかせるのも自分しかいない。書ききれたということはそれだけ自分の文章に甘くなった証拠でしかないのかもしれないけれど、でもやっぱり書けたこと、その事

          物語は、ここに

          言葉にしきれる虚構

           時間にゆとりがある時、何もしなかった時間に後ろめたさを感じる日が続いた時には、何かものを書かなくてはいけない気持ちになってしまう。  昔からそうなのだ。無為に日々を垂れ流す己を、自分が一番許せないでいる。だからせめて、何か書いているときだけは自分が自分を認められる。ある意味猶予のようなものだ。  本音を言えば、言葉にしきれぬほどの何か腑に落ちないものを物語に仮託して語れればいいのだけれど、生憎私にはそれだけの度量もないので考え事のような言葉だけをひたすら垂れ流すばかりで

          言葉にしきれる虚構

          ことばを掬うひと

           手書きよりもキーボード入力が好きになったのは高校生の頃で、頭の中で考えているのと同じ速度で文字を打ち込めることや、その速度で綴っても字が乱れずに後からいくらでも見やすいことに魅力を感じたからです。こんなにも便利なものがあるだなんて。ハンドレタリングなども今だに好きではありますが、考え事に適した書き方はキーボード一択だとその時強く感じたものでした。  その後、大学の論文や今の仕事など、話の流れを大切にする作業が増えてからは、デジタルテキストの切り貼り機能に助けられることが増

          ことばを掬うひと

          自分の願う自分をつくって

           紙の日記を本格的につけるようになって、自分は話にオチをつけたがる人間なのだと悟りました。  紙の日記は誰に見せるわけでもない、流れも収束も無視してただ思いついたことを垂れ流すことが自然とできるわけで、軽やかに綴っていくことができます。けれど例えばこうやってnoteなどを書く時には、誰か一人でも見る人がいてくれるかもしれないと思った途端に、作為がほんの少しずつ自由だったはずの文章に溶け込んでいきます。  仕事柄、数分の小話やスピーチをすることも多いのですが、そういう時でも

          自分の願う自分をつくって

          あんたになんかくれてやらない

           職場の歓迎会もオンラインになって、普段の会食ではお子さんを思って参加しなかった方もいらして場の雰囲気もより和やかで、つくづく便利な時代になったなと感じた土曜日のこと。移動する手間もなく、料理の取り分けやら上司の飲み物の空き具合やらに気を回さなくてもよく、居心地よく過ごせるはずの会でした。  長いこと職場の人との会食がなかったのですっかり忘れていましたが、笑顔を張り付けて当たり障りのない相槌を繰り返す自分がいることを、そしてそういう場での気まずい感触を、じわりと思い出しまし

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