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【書評】アトミック・ボックス(池澤 夏樹 角川文庫)

 歳をとってから小説を読まなくなりました。僕にとって長く「本を読む」とは「小説を読むこと」を意味していましたから要するに小説を読まなくなったのではなく、本そのものを読まなくなったということなのでしょう。そして昨年辺りから、小説を再び手に取るようになり、読書の習慣が復活しつつあります。

 池澤夏樹は好きな小説家ですと言いながら、読んだのは1冊だけで「花を運ぶ妹」(文春文庫)です。バリで犯罪に巻き込まれた兄とその兄を救出する妹の物語で二人の視点から文体を変えての語り口が印象に残った小説で時にハラハラしながら読み進めたのを思い出します。今から思うと「サスペンス小説」といっても良いかもしれません。

小説のジャンル意識に無頓着であっても本書を「サスペンス小説」以外にカテゴライズするのはちょっと難しいでしょう。何しろ主人公である宮本美汐は公安警察に追われ、瀬戸内海を転々と逃走した挙句、ある目的のため東京へと向かうんですから。しかも途中フェリーから飛び降りるという荒技まで使ってです。
本書の魅力の一つは美汐の逃走に瀬戸内海の島々に住む老人たちや友人たちが献身的に協力するところにあります。当然美汐との関係や彼女の人間性なども明らかになり、設定の飛躍(おいおい、そんなにうまくいくかなあという展開もあります)を忘れさせてくれます。裏切りまで行かなくてもその中でお金を請求したり、逃走経路をあっさり公安に漏らしたりする人物も登場しますが、ストリーにリアリティを与えています。美汐を追う、公安側の視点から描くのも展開に現実味を与えてくれます。公安と各県警との関係もありそうなことでこの物語が単なる空想劇でないと思わせます。
 でも本書の最大の魅力は美汐の亡き父宮本耕三が関わった計画はもしかしたら本当にあったんじゃないかと思わせるところです。それを支えているのが、池澤夏彦の科学的知見です。彼は理系出身で「科学する心」などの理系エッセイもあります。時に科学的蘊蓄を語りだすと特にサスペンス小説においては邪魔になりますが、本書はその匙加減が絶妙だと思いました。ドキドキ感が失われることなく、ストーリを楽しむことができました。又日本の過去や現状、特にアメリカ、北朝鮮との関係や福島の原発事故などにも言及していてサスペンスに留まらない小説で、読者にドキドキ感以上の感慨や示唆を想起させてくれます。主人公美汐と廻りに集まる人間との関係はやや通俗的と感じることもありますが、根底に重いテーマが潜んでいますから、もしかしたら通俗性も又本書の重要な要素なのかもしれません。時に「荒唐無稽」という言葉が思い浮かびましたが、それ以上にエンタメ性と知識、そして歴史をみる視点を僕に与えてくれました。一読をお勧めするのに躊躇のない本でした。

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