見出し画像

なぜ分断の時代に「家族」が主役なのか?ー「パラサイト」と「家族を想うとき」ー


*以下の記事では、現在公開中の『パラサイト 半地下の家族』『家族を想うとき」の内容と結末が述べられていますのでご注意ください。まだ作品をご覧になっていない方、これからご覧になる予定の方は以下の記事を読まないことをお勧めします。

はじめに

2019年に公開されたポン・ジュノの「パラサイト」とケン・ローチの「家族を想うとき」、これら2つの映画には「貧困」と「格差社会」という2つのテーマが編み込まれている。そして興味深いことに、劇中で貧困、格差問題に直面する主体が「家族」である点でも共通している。ただ一方で、香港デモやグレタの環境運動のように、2019年の格差問題に取り組んでいた主体は主に「若者」である。なぜ貧困に喘ぐ若者という表象や、現実で社会運動に参加する家族は私たちから見えにくいのか。疑問は多いものの、ここでは的をしぼって「なぜ家族が主役なのか」という点を論じていこうと思う。「パラサイト」がアカデミー賞作品賞、「家族を想うとき」がカンヌ国際映画祭の最高賞パルムドールを受賞した中、私たちには家族の役割を再考する絶好の機会が与えられている。


画像1

・縦の分断と横の分断

それぞれの映画が舞台としたのは韓国とイギリスであるものの、そこで描かれるのは共通して二つの分断のどちらかだ。「縦の分断」とは新自由主義の経済システムの中で貧富の格差が拡大する階級間の分断のことを指す。また、「横の分断」とは朝鮮半島の分断やイギリスでブレクジット(EUからの離脱)が選択されたことといった地理的な分断のことを指す。「家族を想うとき」で描かれるのは「縦の分断」だ。労働者階級のターナー一家は雇用形態が個人事業主化されていくことによって多忙かつ貧困に陥っていく。こうした過程はまさにかつて「ゆりかごから墓場まで」と言われたイギリスの福祉国家体制が新自由主義に転じたことを反映している。一方、この映画の中ではEU離脱という横の分断については多くは触れられていない。
 しかし、その点「パラサイト」は秀逸で、劇中では、横の分断(朝鮮半島の南北分断)が時代が進むにつれ、遅れた北朝鮮、(経済成長によって)進んだ韓国、と上下の分断になってしまったことを描いていた。つまり、この映画の中では韓国内の格差・貧困問題と、一見外からは外交問題に見える南北分断の問題が地続きなのである。それだから豪邸の地下に夫を住まわせていた家政婦は北朝鮮の演説を覚えていたのだし、最後に地下から現れたキム家の父親ギデグと息子が抱き合うシーンが金正恩と文在寅が軍事境界線を挟んで握手した瞬間とデジャブするのである。あれは単なる格差と貧困の映画ではなく、朝鮮半島の分断の歴史によって生まれた極めて地域的な映画なのである。朝鮮戦争の只中で南北分断によって離れ離れとなった家族が、いつか出会いうるという願いがあの映画には込められている。

・まず「家族」とは?

「家族」とは主として血縁に基づいた奇妙なコミュニティである。近代家族には封建制的な核大家族から脱出した、近代的な共同体という側面がある一方で、ジェンダーの面から言えば、DVや母親(女)だけに家庭内労働を押し付けている保守的側面もある。そうした点から言えば家族の価値を評価することは難しいし、とりわけ「毒親」といった言葉に代表されるように、家庭に問題を抱える人々がいる中で家族を全肯定するのは難しいだろう。こうした中で、「家族を想うとき」の評価すべき点は、ターナー家の父リッキーが封建的家族との葛藤を描いた点である。父は息子のセブを叱りつけるものの、暴力的だった義理の父のようになることだけは徹底して拒否しようとする。彼は「家族」を無反省に礼賛するのではなく、現代的価値観との照らし合わせや妻アビーとの話し合いによって幸せな家族をなんとか維持しようとするのである。それはケン・ローチの過去作「私はダニエル・ブレイク」の中でジェンダーの問題が描かれていない、という指摘に対する反省から生まれているのかもしれない。(なんと映画製作時83歳)

・では一体なぜ家族なのか?

  格差、貧困を被る主体は主に若者である。これからの気候変動の被害を被るのも若者であるし、上がり続ける税金を負担するのも若者である。

 その点、家族は若者のセーフティーネットとして新自由主義に晒されながらもなんとか機能しているとも言えるし、若者を庇護する能力を失いつつある共同体として責められる立ち位置にあるとも言える。

 ここで触れておきたいのが「リベラル・コミュニタリアン論争」だ。リベラル、とは自由や権利の擁護者であり、社会変革のために運動する若者は大方リベラリストである。一方、コミュニタリアンとは共同体を重視し、ある種の家族主義者とも言いうる。どちらも人が生きていくためには必須な行動原理であり、個人個人が自由に生きるには誰かとの協力・連帯が必要であるというジレンマにこの論争は端を発している。これはどの国でも「自由主義」と「民主主義」が最後まで融合せず、「自由民主主義」として採用されていることからも肯ける。この問題に明確な答えはないものの、私たちはよりよい社会を作るためには「非リベラルな共同体主義」や「リベラルな反共同体主義(ミーイズム)」を拒否する必要がある。

 文学者の河野慎太郎は映画評の中で「「格差」を扱う映画は、脱出の可能性を描かない。」と指摘した。「『パラサイト』もそうであるし、イギリスのケン・ローチ監督の『家族を想うとき』でさえもそうなのだが、近年の作品は貧困や貧者の生活を赤裸々に、容赦することなく、そこからの脱出の可能性を安易に与えることなく描いてみせる。そこでは、労働者階級やアンダークラスが連帯して自分たちの苦境を解決する、そしてさらにはそのような社会を変える可能性は描かれない。」(河野、2020「【アカデミー賞4冠】「半地下」「悪臭」以外から読み解く、『パラサイト』の秀逸さと限界」より引用)

この指摘は正しいと想う。映画内で格差を描き、その解決方法を提示してしまえば途端に格差問題は陳腐化し、「簡単に解決できる問題」になってしまうからだ。ほかにも「天気の子」のラストのように貧困・格差社会を東京を沈めることで解決するというある種「平等主義的な暴力」による解決、は結局のところテロリズムの論理を反復することになってしまうのが実情だ。

 しかし、この問題は家族が主役であるゆえの困難だとも言える。二つの映画の中で描かれる家族はある種の、ノスタルジーを共有している共同体であり、「昔はよかった」というノスタルジーを共有しながら現在に生きている。ただ、このノスタルジーに縛られていると、取り戻せない過去に執着し、未来のための選択に迷いが生じる。現実に当てはめてみると、2020年のイギリスでの総選挙でジェレミー・コービン率いる労働党は歴史的退廃をし、ブレクジットを阻止するための大きな連帯を作り上げられなかった。これは、コービンの支持基盤が労働者階級(上記二つの映画で描かれるワーキングクラス)と若者であったからで、労働者階級は過去のイギリスへの執着からEU離脱には前向きな傾向があった一方で、若者はEU離脱には反対で、この分断にコービンは曖昧な答えしか用意せずに選挙に臨むしかなかったのである。

 ただ、これからより良い世界を作るために「家族」は邪魔者なのか、というと決してそうではない。若者が家族の援助なしに社会を変えようとするのは非常に難しい。パキスタンの女性運動家マララには父親の応援があり、もちろんグレタも献身的な両親の援助によって自らの運動を行うことができている。他にも、香港デモに2020年現在参加している13−16歳の若者は、主に家族の支援を受けており、家族を社会運動組織の見えない支持組織にすることで成り立っている。一見若者だけで戦っているように見えて、そこには家族がいるのだ。

 先の問いに答えを出すのならば、家族が主役なのは「家族」とは分断とそれに対する葛藤の空間だからである。親と子、それぞれが社会に対して全く同じビジョンを持っているわけではない。家族の内部には労働者が、若者が、女性がおり、それぞれが社会に対して異なる価値観を持っているからこそ生まれる分断・葛藤の空間であるこそ舞台装置として機能するのだ。家族が主役であるのは、リベラル・コミュニタリアンの原理の間で分断され、葛藤し、迷い、それでも共同する点が個人にとっても社会にとってもリアリティに富んでいるからである。

おわりに

 そうしたとき家族をどう評価できるだろうか。家族はおそらく、若者とは社会変革に対する役割が違う。若者が表舞台に立つ一方で、立つための環境を家族が作り出していると言うことが可能だ。いわば、社会変革のための下地を作っているとも言える。河野の触れたように「パラサイト」も「家族を想うとき」も脱出の可能性は描いていなかったかもしれないが、一方で、その問題に取り組んでいるのは現代に生きる若者である。家族が主役では描けなかった「脱出」は、若者が主役の映画によってこれから提示されうるかもしれない。

参照

河野真太郎【アカデミー賞4冠】「半地下」「悪臭」以外から読み解く、『パラサイト』の秀逸さと限界


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?