誰が為に

【短編】人生とは、仕事とは

今日、大学のIT系の講義で教授がこういう話をした。

「皆さんは、今の時代に何が求められているかを考えてください。
世の中における自分の役割を果たせるように学んでください。」

細かい文言は忘れたが、趣旨はあっていると思う。

荒っぽく言い換えると、
「全体にとって役に立つ個人を目指せ」ということです。

* * *

多くの人は、初回オリエンテーションのこんな話を聞き流すんでしょうが、私は教授の言葉に痛烈な違和感を覚えた。

私は、自分のやりたいと思ったことを自分のやりたいようにやりたい。
つまり、個が発想の起点になっている。

対して、教授の取る立場は、全体が発想の起点になっている。

この2つの考えを比べるとき、一見「全体」を起点にする方が社会をより豊かにするという理由から、「個」を起点にすべきでないと思われるかもしれない。(※ここでの「個」は当人に加え身近な人や友人なども含む)

だが、ことはそう単純な話ではない。

* * *

問題は、我々は「全体の為に全力で努力できるか」という点だ。

人は何かに対して熱を注ぐときそれなりの動機が必要になってくる。
「尊敬する師に認められたい」「家族を養うため」「やっていて楽しい」
などなど、人それぞれに動機が存在しているはずだ。

ここで考えたいのは、その動機が全体でありうるかという問題だ。
「世界平和のために演説をする」「日本の技術の発展のために工学を学ぼう」などはありうるのか?

私は、無いと断言したい。
(もしあるのなら私とは違う生き物なのではないか)

全体に対する思いを元に努力し続けることは苦痛である。
見返りや成果を生きている内に得られない可能性があるからだ。

反対に、個に対する思いを元に努力を続けることは快楽ですらある
長くとも数年すれば、見返りを得られるし、それを得られなかったとしても、失敗という結果を得ることが出来る。
つまり、どのみち前に進んでいるという実感がある。

* * *

ここまでの考察で、何かに情熱を注ぐには「動機が不可欠」であること、「個に対する思いの方が実を結びやすく、強い動機になる」ことを述べた。

つまり、皮肉にも、「全体への顧慮」よりも「個の欲望」の方が、生産性が高そうであるし、そのことは結果として全体をよくする可能性を秘めている。

* * *

ごめないさい、教授。
平和な日本に生まれたラッキーな人生を好き勝手に生きていこうと思います。

おしまい。

過去の自分に向けて書いています。同じ悩みを抱えた人が私のnoteで救われたのなら、これ以上の喜びはありません。