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なくしたもの


ここまでしてまで、生きていなきゃならないのか?




きっと、働こうが働かまいが同じことだったのだろう。
けれど、わたしは障害者というレッテル貼られたことによって、なくしたものが沢山あることに気付いた。


わたしは、笑うことを失くした。

職場では笑えていても、それは仮の姿。
職場から離れてしまうと、笑顔はない。
常に虚無感、無価値感、無気力状態なのだから笑えるわけがない。
嘲笑うことや愛想笑いはあっても、嬉しい、喜びの意味での笑うことは失くした。

文章で、笑と書いていたって…わたしは嘲笑いの意味で笑という文字を使っている。

無表情でいれば、こんなに楽なことはないと気付けた。
それだけはありがたいと思わなければならないのだろう。


わたしは、をなくした。

元々、わたしは他人から愛される価値がない物体だ。
それは障害を持つ前から分かっていること。

それでも、生きている内に好きな人から愛される体験はしてみたかった。
けれど、そんなことは一生無理だと何度も何度も突きつけられて、また同じことを突き付けられた。

そんなことは、わたし自身が一番分かっているんだよ。
いちいち、気持ち悪い共依存匂わせ不貞行為の見せつけはしてくれなくて良かった。
わたしは、そこまで馬鹿じゃないと思うのだけれど…健常者様の支援員からは頭のおかしい馬鹿なBBAに見えたのだろう。


わたしは、こころを失くした。

ここまでこころを殺された挙句、極めつけの言葉で更なる死体蹴りをくらった。

障害者は、こころを持ってはならない。
障害者は、感情を持ってはならない。
一生、健常者様にへりくだらなければならない。
何をするにも、「障害者だから」で制限され続け非人間として余生を過ごせということを植え付けられた。


こんな思いまでして、生きることが正しいことなのか?
日々そんなことをずっと思いながら、ただただ時間が過ぎている。

記憶の一部だけ、都合よく抹殺するスキルがわたしに持ち合わせていれば良かったのに。
そうすれば、わたしはこんなに苦しまなくて済むのにね。




障害者は人間ではない。
人間として大切なものは失い続けて、それでも働け働けという圧だけは掛け続けられる。
これじゃあ、自殺する人だって減るわけないよ。
わたしも、さっさと旅立つ為に準備と行動しなければならないけれど…怖くてできないことに腹が立つ。





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