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自分がノンバイナリージェンダーだと気付いた時の話

【焼き鳥屋での出来事】

私には行きつけの焼き鳥屋があるのだが、その店によく来る医者(あだ名はドクター)と仲良くなった。ドクターはたまに友達を連れてくるのだが、つい先日はカメルーン出身の友達を紹介された。

そのカメルーンの友達(仮でマイクと呼称します)は日本にきてまだ1ヶ月で、日本語は全く話せないようだった。だからドクターは私の横で反対側に座るマイクと英語でペラペラと会話をしているわけだが、どうも聞き耳を立ててみると、マイクは私のことが気に入った等の会話をしている。

…ん?ちょお待てえ。会話もロクにしてないのに出会って10分で何を言っとんや??

私はそう心の中で思いながら、英語で話している内容を意識して聞かないように別のお客さんと会話をする。何事も聞きたくないことは聞かないでいれるのが人間の脳の素晴らしいところだ。まあ、聞くべきことも聞けないのが人間でもあるが(笑)
…話が逸れた。戻そう。

私が英語を理解できないと思っているドクターは、その会話の内容を日本語で私に伝えてくる。

「おっぱい大きくて(笑)スタイル良くて可愛い望奈未ちゃんのことがかなり気に入ったらしい。どう???」


…………は?(笑)
その時点で、物凄い不快感が押し寄せた。

そこで初めて言葉として認識したのだが、私は見た目が「女性」ってだけで、好意を持たれることに不快感を抱くようだ。女性だろうが、男性だろうが、私は私だし、女性じゃなかったとしてもあの場所にいた私は、確かに今と変わらない「私」なのだ。

私を私として誇示するものは、性では断じてない。「性」というカテゴライズだけで人は図れるものではない。そう思っているからこそ、性で、見た目で、判断されたことがものすごく不快だった。いい意味でも悪い意味でも関係はない。「性」だけで判断されることが不快なのだ。

確かに私は日本人より他国の人によく好意を寄せてもらいやすい容姿をしているのだが、今回もカメルーンだとか、日本だとか、そんなのは関係なく。同じ人間として、不快に感じた。


【性に対する考え方】

この考えは昔から自分だけではなく、友達や他人との関わりの中でも私が大切にしていることだった。性で悩んだり性の壁を超えて人を愛する素敵な友達と多く出会ってきた私からすると、見た目で判断できる性なんて意味がないと感じてきた。私自身が好きになる対象が結果的に男性だったとしても、女性からの好意に応えてきたこともあるし、男性でも好きになれない人もいたし、男性の親友も多くいる。それは決して性が理由ではなく、個人として、人として、その人達と向き合ってきたからだ。

…という考えは、日本という国の一般的(平均)ではないと分かっているからこそ、その場で説明してもわからないかもしれないし、私の不快感のせいでお店の楽しい雰囲気をぶち壊すのも違うと思い、一言、「結構です」と遠慮の言葉で切り抜けようとした。

だが、ドクターは終始「海外の人にモテるんやね…」とか「望奈未ちゃんのことが物凄く可愛いって。デートとかどう??」と私に言い続けた。

もうダメだ…でも我慢や…と思いながら、とりあえず私は「日本語話せるようになったら、一緒に飲みながら会話しましょうね」と、かなり遠回しに「コミュニケーションで人となりを知らないと好意は持てません」と伝えたのだが、もちろんデリカシーというか、私の微妙な普段との違いを察することのできないドクターは私の不快感を募らせ続けた。

なんて不快な日曜日の夜だ…と内心やさぐれながらTwitterを見ていると、たまたま「ノンバイナリー」という言葉を見かけた。私はジェンダーレスです、という紹介とともに記載されていたその単語がどうしても気になり、調べてみたら以下のように書いてあった。

ノンバイナリージェンダー(nonbinary gender)とは、自分の性自認(=体の性ではなく、自分で認識している自分の性)が男性・女性という性別のどちらにもはっきりと当てはまらない、または当てはめたくない、という考えを指す。「第三の性」「クィア」とも呼ばれる。LGBTQのQがその言葉に該当する。

たとえば、「女に生まれたけど自分の男と女どちらの時もある」「昔は自分は男性だと自分を納得させようとしていたけど、実はそうじゃないかもしれない」など、自分で認識する性を固定しない立場をとる人々は、ノンバイナリーとされる。
なお、恋愛対象となる性は必ずしも同性ではない。性自認と、性的指向(=好きになる性)は別だからだ。

英語圏では、ティーンエイジャーを中心に「he(彼)」でも「she(彼女)」でもない、ただ自分という存在があるだけ、という主張もされている。

ノンバイナリーの中には、ジェンダーフルイド(自分のジェンダー定義を明確にせず、その時々によって性自認が変わること)の考えも含まれている。呼び方がたくさんあるので混乱する人もいるかもしれないが、用語の意味も人によって変わるときがあるので、発言する人に出会ったらその人の考えを尊重するのがベストである。

…なんというタイミング。自分はこれかもしれない。と、その時気付いた。

自分の性に対する考え方が一般的(平均)でないことは気付いていたが、それがどのような傾向で、どのような言葉で言い表せばいいのかをずっと疑問に感じていたのだが、ようやく類似した言葉に出会った気がした。(まだ気がしているだけかもしれないけどね)


【カテゴライズはしないで】

だけど言葉の認識と同時に思ったのは、LGBTQはあくまで「考え方」の名称であって、その言葉自体がカテゴライズになってはいけない、ということ。

彼女は女です。彼は男です。という姓の区別と同じように、彼はバイです。や、彼はホモです。と言うようになってしまえば、姓のしがらみに結局囚われてしまう。

彼女はノンバイナリーです。という紹介ではなく、彼女はノンバイナリーな思考を持った人です。というニュアンスが正しいだろう。

だが逆に(?)、私は肉体的に女の組織を持っている自分に誇りを持っているし、そんな自分が大好きだ。女らしいとも男らしいとも言われるし、男だろうが女だろうが私が私であることに変わりはないが、他人に「女」として認識されていることも重々承知の助である。私がどうであれ、世の中の平均がその社会の「普通」になるんだから普通と比べたら私の肉体は女性だし、性格は男性らしいだろうとも。

だけど私は自分を「女」としてカテゴライズしている。

私は女だ。「女」というカテゴリーが好きだ。絵画という表現方法が好きなのと同じように、女が好きだ。女であると認識する自分が好きだ。だが、やはり、女であると認識しながらも、個人として見てくれる友達が大好きだ。


言葉とはどのようなものか

言葉とは基本的に「何かを否定すること」というのが私の持論だ。

『暑い』という言葉1つにしても、『寒い』という反対の状況を否定することになる。「貴方は優しい人だね」という言葉を誰かに投げたときには、「貴方以外の誰々さんは優しくなかった」という過去にあった何かが見えてしまう。

思ったことを発するのはコミュニケーションの上では大切ではあるが、言葉や単語のチョイスには十分気をつけないと、自分の知らない認識で誰かの心を傷つけることがあるかもしれない。性の区別や差別とは、そのような認識の誤差が生んだ社会性の闇ではないだろうか。

その上で、発言しておきたい。

私は、性的嗜好(恋愛対象)が男性の、
ノンバイナリーな思考を持った性自認は女性の、
あくまで、個人を尊重したい1人の人間です。


…私と同じように、世界のどこかで「性」に悩む、
日本語という一つの言語を理解できる、あなたの参考になりますように。

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