見出し画像

やんなっちゃうやんなっちゃうやんなっちゃう♡

『幸せカナコの殺し屋生活』という漫画を今更知って案の定ハマった。主人公はブラック企業から抜け出して、ひょんな感じで殺し屋になってしまったんだとか。前職の上司を早速殺してみろという命令に臆するも、なんだかんだ任務完了で「あげぽよ──⭐」なカナコさん。
この物騒でポップな世界観に「気分爽快──⭐」なトランス状態になったせいなのか、これは規制ギリギリかといったヤバめな過激思想があらゆる穴という穴から漏れ出てきてしまった。どうやら私は相当疲れているらしい。
ここから先は、生きる事に疲れきった人間による“空想note”である。BGMは表現の自由にえらく救われているであろうThe Mirrazさんでお願いします。

僕らはいつか銃で殺しあう
僕らはいつか銃で殺される
僕の脳みそがイカレる前に歌いたい
それ完全に、アウトです!  ──「マジかーそうきたか、やっぱそうきますよね。はいはい、ですよね知ってます。」The Mirraz

私は、自分の事をわりと心が広い方だと思っている。特に友人関係には寛大で、学生時代のサークルの連中が集合時間に全っっく集まって来なくても、なんか皆らしいやと笑って済ませるタイプの人間。なんなら逆に遅刻常習犯の先輩が時間通りに来ると驚くし、なぜか心配になってしまうぐらいである。
皆があいつはどうだとかこうだとかと頭をカッカさせていても自分は別にウーンという感じだし、基本的には穏やかな性格な気がしている。勿論、“基本的に”である。
悪口を聞くのもされるのも嫌、誰かが怒られているのを見るのも嫌、理不尽に怒られるのもマゾではないので嫌、とにかくあらゆる揉め事というか争い事が大嫌いである。こういう人間をいわゆる“平和主義者”とでもいうのであろうか。

完全なる平和主義者の定義はわからないけれども「私は、平和主義者です!」とまでは言い切れない節がある。なぜならば、“あー、マジでコイツ殺してえなー”などとわりとドス黒い事を腹の奥で思っていたりするからである。
「それは致し方ないよ~、皆もそうだよ~、だって人間だもの──⭐」とラッパを持った天使が高めの声で囁いてくれている気がするけれども、私にもそんな攻撃的な一面があるというか、スイッチが切り替わるといつもは穏やかな自分が一転して過激派に豹変してしまう事が時折恐ろしくなる。

“皆、殺されない前提で生活しててウケる”

幸せカナコを読んでいたのもあったし、後輩ちゃんが身勝手な上司に憤怒しているツイートを見たのもあってか、ふとそんな事を思ってしまった。刑法第何条だかが厳格であるせいで「ちがうのー!この手が勝手に──⭐」みたいなノリが許されず、明らかに公害な上司であっても殺しちゃダメだなんて、正直それこそダルダルダルダルダルメシアンである。偉そうな態度のやつらは法律に生かされている。その事に甘んじている輩が多すぎるのではなかろうか。
したがって私は「皆、殺されない前提で生活しててウケる」という屈折した感想を抱いた次第であり、パワハラを原因に自殺してしまった人の話を聞くと「いや、今からで良いから加害者が死ねよそれか殺すぞ──⭐」としか思えないのである。
というか、こんな事をぼんやり考えているタイミングが法律関係の仕事の面接後であるのがこれまた皮肉というか、シンプルにアウトだよなと思う。

もしもこの国がわりと不法地帯で、人様に恨まれるような事をすればあっさり殺されてしまう、そんないっその事清々しい世の中であったとしたならば、皆すっかり怯えてしまって誰に対しても横柄な態度なんて取れないだろうに、と可笑しな妄想をしていた。
普通殺されたくないだろうから皆周りに気を使いながら生活すると思うし、なんとか“平和”を取り繕うとするはずである。何かハラスメント行為をされようものなら「アタシったらいっけなーい! ついお気に入りのロケットランチャーが──⭐」みたいな感じでトラブルは完結するのであるから、現代人が抱える慢性的な人間関係由来の“生きにくさ”もきっとなくなるはずである。
そうして思いやりの欠片もない利己主義な人間は綺麗さっぱり居なくなり、やっとこさ心優しい人たちがちゃんと報われる環境が整うのだ。これぞ誰もが夢見た“優しい世界”の実現である。

画像1

(上野動物園のやる気のないゴリラ)

そもそもどうして皆してイライラしているのか解せない。ピリピリした空気の職場に生産性など感じられないし、イライラするのだってエネルギーが必要なのであるから、もっと理性的になって他の事にエネルギーを注ぐべきであると思う。いい歳こいてアンガーマネジメントもできないなんて情けないし、そんな風通しの悪い職場に身を置くのは、本当に疲れる。

そうした周りの空気にやたらと敏感である事は、HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)という気質の特徴の一つだそうで、その認知度は年々高まっているように感じている。
タイトルしか知らないけれども、いつか『鈍感力』なる本がベストセラーになっていたはずである。なれる事なら過度に繊細な人間よりも、程々に鈍感な人間になりたい。その方が確実に生きていきやすいから。
このご時世、優しくない人間の方が断然多く、優しい人間は損をしてばかりな気がしてならない。他人を変える事はほぼ不可能といって良いし、となるとスルースキルを高めるなりして自分のスタンスを世の中に適応させていく事ぐらいしか処世術が浮かばない。

なんでこうなんの?

かつて商社に勤めていた頃、取引先にとんでもなくふてぶてしい30代ぐらいの女が居た。私と歳の近い直属の男性の先輩が訪問時にいつもその女に難癖をつけられていてとても不憫でならなかったという記憶がある。

その女は「アポは14時って言いましたよね? まだ13時58分なんですけど」とわざわざいちゃもんをつけて奥へと戻っていき、そして14時を少し回った頃に再度お呼び立てをすると「14時過ぎてんじゃん」と結局キレるようなとても厄介な人物だった。
どのみち怒るとか更年期障害も甚だしい、といつかのM-1の炎上騒ぎと同じ事をこの時ばかりは思っていた。私はOJTで同行の身であったがために一歩下がってなんとなく頭を下げていたけれども、先輩は必死に謝っていた。その女は常にこんな態度だったので、訪問先で理不尽なハラスメントを受けてきた先輩は相当な屈辱に耐えてきた訳である。

それでも心優しい先輩は「いつもの事だから──」と力なく笑っていた。一方の私はというと、営業車の中で完全に過激派へと豹変していた。
「あのふてぶてしい態度、なんなんですか?」「何様のつもりなんでしょうね」「そもそもブス」「見た事のないレベルでブス」と言い放ち、先輩の代わりに怒り狂いすぎてもはや涙が出てきた事をよく憶えている。
そんな私に対して先輩は「代わりに怒ってくれてありがとうね」と言い、私の頭の中はごちゃごちゃになってしまったのであった。いくら相手が見るに耐えないブスであろうと、先輩のように感情を抑えてこそ大人であり“社会人”である。私は深く反省をした。

私はそんな先輩に「先輩って、本当にいい人ですよね」と言うと、先輩は「その“いい人”っていうのはね、頭に“どうでも”がつくんだよ」と夕暮れ時の車内で寂しそうにそう言ったのであった。──“どうでもいい人”、先輩はそんなんじゃないのに。

確かまさにその日の残業中、先輩は皆が見ている前でひと回り年上の社員に何やらこっぴどく叱られていた。その社員は日頃からとにかく話が長く、説教までもすこぶる長い人だった。
聞き耳を立てるのは失礼だとは思いつつ話を聞いていると、その内容は本当にちっぽけなもので、“さてはこの人、ただ怒りたいだけだな”と思うばかりなのであった。時間は刻々と過ぎていき、あっという間に夜20時近くになっていた。
そして私はその日の帰り際、いつも温厚な先輩が自転車のカゴの中にペットボトルの烏龍茶を思い切り投げつけていたのを目撃したのであった。

殺し合いなんてしたくはない
だけどむかつく奴マジ殺したいの
知らねーよ、誰もが生きるために必死なんだ

今なら定職もない事だし、それこそ殺し屋になって先輩に代わって「ブスブスブスブスデブスナネズミ──⭐」とか「お話長々長々フクロテナガザル──⭐」とか言ってそいつらまとめて敵討ちをしてやりたいぐらいである。先輩はその後異動となったようであるが、どうせやつらは今も他の人をターゲットに好き勝手な振る舞いをしているに違いない。

そういえば幸せカナコの初回に出てくる「ムリムリムリムリカタツムリ」のフレーズを最初に教えてくれたのはその先輩だった。会話の中にナチュラルにそれをねじ込んできたのを聞いて、私は声を出して笑った。
私は先輩にじゃじゃ馬扱いされていたけれども、兄妹のように仲良しだった事を思い出す。そして先輩にはうつ病の彼女さんが居た。当時先輩は27歳で“結婚”の二文字が世間体的にチラホラ浮かぶとの事なのであった。
ただ、その頃の私は「絶対苦労するから他の女の人を探した方が良いと思いますよ……」などと冷血な事を言ってしまい、その事を思い出しては未だに後悔の念に苛まれている。
その後、間もなくして私もうつ状態を経験し、いかに心の支えとなる存在が有難いかを身をもって感じる事となった。しかしながら、その彼女さんには友だちがあまり居らず、先輩なしには居られないとの事だった。
それだというのに、当時まだ鬱の辛さを知らなかったとはいえ、私は無責任にも闘病中の彼女さんを先輩から引き離すような酷い事を口走ってしまった。その事に対する罪の意識を自覚して以降、いつまでもその二人の事が頭から離れなかったりするのであった。

考えるのが面倒になった
脳みそ宇宙に放り投げたい

結局のところ、私はきっと優しい人ではないし、下手をすれば私こそ殺されかねない存在であると内心思ってはいる。それでもどんなに空想を膨らませたところで現実では人を殺してはいけないらしい。即座にお縄でブタ箱行きである。
それなのにこの世の中は、温厚で優しくて人の気持ちが良く解り、それでいて一生懸命で責任感の強い人ほどあらゆる不遇に見舞われるようになっている。正直、“殺されて当然”みたいな人間は山ほど居て、そんな輩に心優しい人たちは社会的に殺されていくのである。
いっその事、マンモスを追いかけていたシンプルな時代に戻りたい。幼稚園の頃に観ていた『はじめ人間ゴン』の世界にいつの間にかリセットされてしまえば良いのにと思う。今の人類はもはやどこを目指しているのかわからない。
ネットの世界を眺めていても出てくるのは不穏なニュースやゴシップ、言い争いばかりなので、ネットニュースもTwitterのトレンドも意識的に断つ事にした。これで少しはこの厭世感もなくなってくれるだろうか。

お願いだから、先輩のような心優しい人たちが辛い思いをしない世の中になってほしい。なんなら、私が大嫌いな陰湿極まりない人たちも皆まるっと幸せになってしまえば、誰もが自然と心穏やかになって小さな事でイライラする事もなくなるのかもしれない。
皆が幸せになって全ての人々の心に今よりも“余裕”ができたなら、現状こんなにも世知辛い世の中も一転して生きやすくなるのであろうか。──だけれども、そもそも“幸せ”ってなんですか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?