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今朝平遺跡 縄文のビーナス 48:蓬莱竹と秦氏

愛知県豊田市桑田和町(くわだわちょう)石動神社(いするぎじんじゃ)本堂覆屋の周囲には複数の境内社が祀られていました。

愛知県豊田市 足助川
足助川 桑田和町 石動神社/千桑橋
足助川 桑田和町 石動神社

桑田和町 石動神社本堂覆屋左手の雑草の中に銅板葺切妻造平入で木部を朱染にされた境内社が祀られていた。

愛知県豊田市桑田和町 石動神社 境内社稲荷大明神

高さが50cmほどの社だ。
正面のガラス格子戸の前には石版が置かれていた。

近くに寄ってみると石版は表札で、「稲荷大明神」と刻まれていた。

桑田和町 石動神社 境内社稲荷大明神 表札

格子戸のガラスの一部が割れており、社内に金色の経巻をくわえた使いの白狐像がのぞいていた。

この稲荷大明神(宇迦之御魂大神)は総本社である京都の伏見稲荷大社から勧請されたものと思われるが、総本社は京都市伏見区の稲荷山全体を神域とする神社で、やはり神体山を祀り、山岳信仰と神仏習合していた本来の石動神社にとっては不可欠な鎮守社だったものと思われる。

一方、本殿覆屋を挟んで右側の、やはり雑草で全面が覆われたホウライチク(蓬莱竹)が棒立ちになっている林の中に石祠が祀られていた。

桑田和町 石動神社 石祠(境内社)

この石祠の手前には1段だが石段がのぞいていた。
ホウライチクは不思議なことに密集せずに、2本づつセットになっているように生えていた。
ホウライチクは山の境界部分に人為的に植えられる竹だという。
このホウライチクの太さは東儀秀樹がよく使用している篳篥(ひちりき)の材料に使用できそうな太さだった。
素人考えだが、茎が肉厚で重く、棒立ちするのが特徴なので、篳篥の材には向いている竹だと思われるが、東儀秀樹がエッセイで、日本の雅楽に使用される篳篥はすべて、京都の1ヶ所(実際の場所名は忘却)で繁殖している竹が使用されていることを紹介していた。
ただ、竹の種類までは紹介していなかったので、東儀秀樹の愛器がホウライチク製なのかは不明だ。
東儀秀樹は篳篥のソロ演奏で、よくポップスの名曲をレコーディングしているが、その選曲がビートルズの「ヘイ・ジュード」などで、あざと過ぎて個人的には好きになれないのだが、例外的に神がかった演奏が1曲だけある。
以下の演奏だが、これはピアノの伴奏が入っている。

ここで気になったのが、この竹に三河にも伝承が伝わっている徐福と関係のある名称「蓬莱」が付いていることだ。
そして徐福はさっき見てきた石動神社本殿覆屋の向こう側に祀られた稲荷大明神とも関係がある。
徐福は蓬莱(ほうらい:日本列島)に長生不老の霊薬があるので、それを取りに行くと、秦の始皇帝に企画を出して資金を出してもらい、日本列島にやって来ている(日本の多くの歴史学者はこれを創作話だとしている)のだが、3度目の来訪では秦国の百工(多職種の技術者)を従えて来訪したと伝えられ、職人が使用材とするためのホウライチクの株を持ち込んだ可能性は十分あると思える。
ちなみにホウライチクの原産地はシナ南部とされており、シナ地域ではホウライチクとは呼ばない。
そして、東儀家の先祖(奈良時代までは、はっきりしているようだ)が秦氏の後裔である可能性も十分ある。
さらに京都に伏見稲荷を祀ったのも秦氏であることは、はっきりしている。

ホウライチクはともかく、その林の中に祀られた石祠には屋根の正面に唐破風(からはふ:屋根に正面向きに設けた頭部の丸い飾り屋根)が設けられており、どうも破風飾りには十六菊花紋の神紋が刻まれているようなのだ。

桑田和町 石動神社 石祠

十六菊花紋を使用した神社は伊勢神宮や八幡神社などがあるが、どちらも秦氏が関わっている神社だ。
ただ、表札も情報も見当たらないので、確定はできない。

本殿覆屋前に戻り、脇に巨石のある参道の石段を降り、石段脇から南西に延びる石垣を辿ると、雑草と周囲の樹木を伐採された場所に銅板葺流造で縁と脇障子を持つ境内社A(上記地図内仮名)が祀られていた。

桑田和町 石動神社 境内社

稲荷大明神の社前にもあったが、境内社Aの前には韓紅に染められたトタン葺屋根を持つ、稲荷大明神より立派な蝋燭台が設けられており、神仏習合していた名残を感じさせる。
この境内社の内容は情報が見当たらず不明だ。

拝殿前の広場に戻ってくると、その東には寺勾配を持つ石垣を組んだ基壇上に板碑が祀られていた。

桑田和町 石動神社 板碑

板碑には以下のように刻まれていた。

 明治神宮
橿原神宮
 聖徳太子

桑田和町 石動神社 板碑

橿原神宮(かしはらじんぐう)は神武天皇と皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)を祀った神社だが、明治天皇が創建した神社なので、この板碑の隣に「明治神宮」が並んで記されているのだろうが、もう1行が神社ではなく「聖徳太子」という組み合わせには驚かされる。
ここに明治神宮が祀られているとすると、ホウライチクの林の中に祀られた石祠は、やはり十六菊花紋を神紋とする明治神宮である可能性が追加される。
「聖徳太子」という諡号は厩戸皇子(ウマヤドノミコ)のものであると考えられるが、厩戸皇子にはキリストが馬小屋で生まれた伝承が借用されており、これも稲荷大明神と関係がある。
イエス・キリストが処刑された十字架の頭頂に掲げられた罪状書には「INRI」と書きこまれていたことが判っているが、これはラテン語「IESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM(ユダヤ人の王 ナザレのイエス)」の頭文字だ。
頭文字だけ抜き出して(NAZARENVSだけ頭の2文字を抜き出している
)並べると、以下のようになる。

 I      NA   R I
イ ナ リ

このことからすると、厩戸皇子(聖徳太子)は伏見稲荷大社を祀った秦氏と関係がある可能性が出てくるのだが、実際、聖徳太子には秦 河勝というブレーンが存在していたことが分かっている。
ホウライチクの林の中の石祠候補として、秦氏を招聘した応神天皇を祀った八幡神社も挙げたのだが、実は朝鮮半島から大分県国東半島に渡来し、亀山(小椋山)の竜神祭祀に八幡信仰を結びつけて宇佐神宮(八幡神社総本社)を祀った辛嶋氏(からしまし)は秦氏の支族であり、大陸では景教(キリスト教)を信奉していたとされ、日本人とナザレのイエスを結びつけたのは伏見稲荷大社を祀った秦 伊呂具(いろぐ)や秦 河勝であった可能性がある。
ちなみに秦国人を日本列島に導入した徐福自身は斉国人であり秦国人ではない。

石動神社から33号線に登り、石動神社の社号標&案内書の左手に33号線の方を向けて設置されていたモニュメントを観に戻った。

桑田和町 石動神社 境内社(?)秋葉神社 献灯

ちょうど、このモニュメントの裏面が石祠の祀られていたホウライチクの林が密集している場所だった。

このモニュメントには正方形の凹刻の中に真円が抜いてあり、その下に「献灯 秋葉神社」と文字が線刻で入っていた。

桑田和町 石動神社 境内社(?)秋葉神社 献灯 線刻文字

「献灯」ということは、真円の中に蝋燭もしくは電球が灯され、正方形の凹刻部分の表面には和紙、もしくは乳白色の塩化ビニール板が張られていたのかもしれない。

豊田市桑田和町 石動神社/千桑橋

地図を見ると、足助川(あすけがわ)の石動神社の下流140mあまりに橋が架かっているので、それを見るために石動神社入り口から33号線を190mあまり下り、橋に向かう脇道に入った。
脇道を80mあまり下って行くと千桑橋に出た。
千桑橋は、この部分で巾18m近くある足助川の上流に向かって斜めに架橋されていた。
愛車を橋の袂に駐めて、千桑橋の中ほどまで出てみると、右岸(下記写真左側)は樹木が密集して枝葉が足助川の中心線を超える場所まで伸びていた。

豊田市桑田和町 足助川 千桑橋上流側

一方、左岸の千桑橋すぐ上流部分では土砂が川幅の40%ほどを塞ぎ、雑草で覆われた河川敷になっている。
その河川敷に向かって降りられる石段が左岸から延びているが、石段の上流側には美しいカーブを描くようにコンクリートブロックで2段に護岸されていた。
川床には透明で美しい水が静かに流れている。

千桑橋上から下流側を見下ろすと、こちら側は川床に大型の河原石が転がっており、水の流れは速く、そのために土砂の堆積は右岸(下記写真右側)が護岸されていないことから、土手が崩れ落ちた土砂が堆積しているのみだった。

桑田和町 足助川 千桑橋下流側

左岸側にはコンクリートブロックの護岸が上流側から続いているようだが、完全に雑草で覆われている。
山の上からカーブして下ってくる道が足助川に並行しており、その道の脇に白壁に縦に窓が2つ並んだだけの蔵らしき美しい建物が見えていた。
足助川の下流方向は両岸から樹木の枝葉が覆いかぶさり、行く手の視界を塞いでいる。

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私見では聖徳太子(厩戸皇子)は蘇我馬子の別名だと考えています。正史では聖徳太子と蘇我馬子は共同して推古天皇の執政をサポートしたことになっていますが、二人の関わった事象を年表にして抜き出してみると、事象が見事に交互に並びます。つまり、一人の関わった事象を交互に並べ、二人に見せかけたものが正史になっている可能性のあることが解るのです。

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