ほしねこ
つぶやき
2020年の日記✏️
雑感
今日の躰を、知っていく。 ヨガは、そんな時間。 繋がるからだを、感じて。 欲しいものは、いつだって自分の内側にあります。
仕事の合間にスタジオを抜け出す4月13日。買いやすいようにビルの入り口に設けられた限定の特別販売ブースに、ときめきつつ、そこに居た村上春樹コンシェルジュのおじさんに「どの本が一番好きですか?」と尋ねられる。 「長編なら、…。中編なら、…。、短編な、ら…。随筆なら、…。」とそれぞれのジャンルにて答える。一冊だけなんて選べない。 奇しくもそれは、春樹コンシェルジュおじさんと好みが合致していて、更に春樹コンシェルジュおじさんのコアな春樹ネタに、はしゃいでしまったのだけど、 後で考
ヨガにおいて自分を知るということとは、 自分じゃないものを理解して手放すこと。 「自分はこうだ」 と、思い込んでいたものを手放すこと 「この身体はこうじゃなくていいんだよ」
セガンティニの雲がためらいがちに憧れながら誇らしげに揺れる。雲を仰ぐ美しい少女を見つめるペーターカーチメント。 彼を取り巻いた3つの死。母の死、親友リヒャルトの溺死、身障者のボピーとの終末。彼の魂も時間と永遠の間で不変を求め揺れ与うるより多くを受け取る。 環境と人格形成の関わりを深く観ることを覚える、聖フランシスと雪山、イタリアでのペーターカーチメントの顔はそれぞれ違う。今観えてるものは本の一部分で全てじゃないこと。 存在の苦悩を理解し表現してくれるようだった
「……いったい、私たち人間は死をなくすために生きているの? いいえ、私たちは死を恐れ、そしてまた死を愛するために生きているのよ。死ぬってことがあればこそ、わずかばかりの命がほんのひとときのあいだあんなに美しく輝くことがあるのよ。……」(『荒野のおおかみ』高橋健二訳 )
こんな世の中のめざす目標など私は一つだって共にしはせず、こんな世の中の喜びは一つだって私にしっくりしないのに、どうして私はこの世の中のただ中で、荒野のおおかみやみずぼらしい隠者であってはならないというのか。 (中略) 私にとって歓喜であり、体験であり、陶酔であり、心の高揚でもあるものを、世の中の人はせいぜい文学の中で知り、求め、愛するのであって、生活の中ではそんなものは狂気のさただと思っている。実際、もし世の中が正しいとするならば、カフェーの音楽や、大衆娯楽や、あんなに安直な
感情に流されず自己の状態を観察する以外は一切何にもしない時間を持つ
あの大仏さまが何故どのような目的でたてられ、どのようにして守られて来たか東大寺を渡る荘厳な歴史の河を読む。 同時にかこさとし=からすのパンやさんとかの人。その程度の認識の自分のものの知らなさ過ぎにも愕然とする。 読む前と後では眼も心も大きく変えられる内容の密度に感服。 美しいとはどんなことに勤しむ人の行いを指すのか教えてくれる迫力の良書。
風よ翼を震わせて あなたのもとへ届きませ