見出し画像

02. 明智光秀公、出自の最新説

朝日新聞、全国版で明智光秀公出生の六番目の最新説と、滋賀県、多賀町佐目の伝承が紹介されました。この伝承について、具体的に動きだしたのは2018年10月で、定めとも言える偶然が重なり、滋賀県文化財課の井上氏が佐目を訪ねて来られた事から動き出しました。

●『淡海温故録』(おうみおんころく)という光秀公の出自について書いてある今の所は一番古い文書の内容と、500年にもわたり密かに佐目の見津一族に口伝として伝えられてきた内容が一致した事に、井上氏も見津氏もそれぞれ驚いたというものです。

●私自身は、多賀大社の信仰を全国に広めてきた今はなき「坊人」(ぼうにん)の子孫だと二年程前に初めて知り、多賀大社叢書(そうしょ)を読んでいる時に、生まれ育った「左目(佐目、さめ)」と「明智」という文字が目に止まり読み進めると、多賀大社に深く関係していた多賀氏、久徳氏等「犬上衆」が本能寺の変の後、光秀公の〈昔の旧き好身〉で山崎の合戦に参戦して没落したとあり、全く知らなかったので驚いた次第です。

●佐目が明智光秀とゆかりがあると知ってはいましたが、眉つばものだろう(笑)とさほど気に留めていませんでしたが、多賀大社が絡んでるとなると、もしかしてホント?かな?と気になっていました。何より、昔の好身でも、旧き好身でもいいのに、しつこく、「昔の旧き」と書いているのが、なんとも探究心をそそりました。

●が、私自身の先祖の事を調べていると、甲賀忍者と多賀坊人は表裏の関係だったとわかったばかり、明智光秀は他人事だったので(笑)放置していた所へ、2020年大河ドラマが明智光秀だと知り、誰か多賀の人が動くだろうと思っていましたが、何の動きもなく「そろそろ動かないと乗り遅れるのでは」と声をかけたのがはじまりで、巻き込まれて今に至ります。

●この伝承が通説と違うのは、光秀(十兵衛)の2〜3代前の明智十左衛門が六角高頼を頼って近江にやって来た!と、いうものです。上の地図から佐目は、美濃も伊勢も近い所です。人的交流もあったので、情報だけでなく、美濃での戦さにもスルッと参加できる距離です。

多賀坊人の事を調べていたから、なるほど!となぞが解明する事もあり、追々、お伝えして行きますね。つづく。

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

1

三銀蔵

三銀蔵の片付けから、先祖が「表は坊人、裏が忍者」と言われる多賀大社の今はなき「坊人(ぼうにん)」だとわかり、「明智光秀が近江・多賀の佐目」出身だとてう資料に目が留まり、地元の口伝と一致する事から、通説とは違う角度から調べはじめた事を中心に書いていきます。

明智光秀 多賀出身説

コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。