私という人間が出来るまでのお話

私は中小企業の社長の父親と美人な母親のもとに生まれた。

田舎町の裕福な家庭。

その内実は、父親と母親は籍を入れていない事実婚状態だった。二人はもともと不倫関係だった。父親は母親と過ごした7年間のうちのほとんどを前妻と離婚をしきれずにいたそうだ。その前妻と離婚した後もなぜか籍は入れなかった。少し前に聞いた時、母親は「私は意地を張っていたの。離婚した後、彼は何も言わなかったから。私からは言いたくなかった。」と言った。

だからだろうか、私は父親を当時パパとは呼んでいなかった。母親に「Tくんと呼びなさい」と言われて、疑うこともなく私はその愛称で呼んでいた。

それを知ったのはいつだっただろうか、ただ戸籍謄本に親子関係が「養子」と書かれてるのを見て、それが事実だと知っている。
ちなみに養子扱いだけど私は間違いなく、父親の種から生まれていると思う。顔が似ているし、多分。

父親と前妻の間にも子供がいる。私にとっては腹違いの兄に当たる人。その人は赤ん坊の私を抱いたことがあるらしいけれど、父親はどんな気持ちで私を息子に抱かせたのだろうか。考えると苦しい気持ちになる。
兄という存在への憧れから会ってみたいという気持ちを抱いたこともあるけれど。私は彼らの家庭が壊れたからこそ生まれた存在だ。会いたい、などという気持ちは抱いてはいけないと理解している。

母親は私をお姫様のように着飾らせるのが好きだった。

高級子供服ブランドのワンピースを身に纏い、髪の毛を茶色に染めて、ふわふわとしたパーマをかけていた。母親は怖いと嫌がる私に無理矢理ピアスを開けた。痛みにグズグズと泣いたのを覚えているけれど、少しして可愛いピアスを見て私の機嫌はすぐに戻った。

実際、私は可愛かった。幼稚園の七夕では織姫と彦星の格好をして男の子と写真をとったのだが、私は足の早いYにするか、顔のいいKにするか、優しいRにするかで悩むような罪作りな美少女だった。結局選んだのは顔のいいKだった。

誕生日に真っ白なお馬さんがほしいと言えば、祖父は本当に真っ白な馬を買ってくれた。馬を買ってもらえる幼稚園児はなかなかいないと思う。私はその馬にユキちゃんと名付けて、注意されるまではユキちゃんに乗って幼稚園に通っていた。

 当時の女の子なら誰もが欲しがるような大きなおもちゃのドレッサーの前でキラキラとラメの光るピンクのジュエリーボックスに詰め込まれたおもちゃの化粧品やアクセサリーを漁りながら、自分はお姫様なんだと本当に思っていた。

小学一年生になる前、私は当時では珍しかった、薄いピンクのランドセルを買ってもらった。小学生になるのが楽しみで仕方がなかった。
その頃、母親が真っ暗な客間で泣きながら誰かと話しているのを見た。

一年生になり、田舎町では異質なピンクのランドセルを背負った茶髪でくるくる頭の私はそこまで学校に馴染めていなかったと思うけど、絶対的な自信があった私は大して気にしていなかったと思う。というよりも、そもそもそれに気付いていなかったと思う。

それから少しして、真夜中に母親に起こされた。寝ぼけ眼の私に母親は「ディズニーランドに行く」と言った。やけに荷物の多い軽バンの後部座席に座って、私はすぐに寝たと思う。まぁ当然だけれど、ついたのはディズニーランドなんかじゃなかった。そこは隣町だった。目の前にあったのはシンデレラ城とは似ても似つかない、古めかしい平屋だった。

私のお姫様時代はこのとき終わった。
父親のいない暮らしはとても貧しかった。

正直、そこから2年間の記憶はあまりない。
小学校では前と変わらず馴染めていなかった。そしてそれを前と変わらず気にしてもいなかった。当時同じ学校だった友人がいるが、彼女は私を「やばい奴」だと思っていたと言う。加えて「今もその考えは別に変わってない」とも。
まあ本当は様々なことが起きたらしいのだけど、覚えている記憶は断片的だ。まぁ子供の頃のことだから、そんなものなんだろうとは思うが。

母親と過ごした記憶はあまりない気がする。
叔母は私達は「ネグレクトを受けていた」と、高校生になった私に言った。そして「母親を恨んでいないのか」と聞いた。

私は「よく分からない」と答えた。

確かにあの時あんなだったのは、ネグレクトを受けていたからなのか、と思えば辻褄が合う部分はあるけれど。

私の答えを聞いた叔母は「辛い記憶を消してしまったのね」と私を哀れんでいた。

私が覚えているのは、すぐ隣に住む大家さんがとても優しかった事、大家さんの作った冬瓜の煮物がとても美味しかったこと、大家さん家の長男の部屋の中でエッチな漫画を見つけたこと、廃品回収のときに弟とゲームボーイを拾ってこっそり持って帰ったこと、それを暗い部屋で母親に隠れながら弟と交代交代やったこと。他にもまだあるけれど。まぁ割愛しよう。

覚えてる記憶の中で鮮明なものもいくつかある。
良い記憶ではない。

これは引っ越してからすぐのことだったと思う。
この頃から、母親は夜家にいないことが多かった。その日も夜中になっても母親が帰ってこず、泣きべそをかく弟と玄関の前でブランケットにくるまりながらしゃがんで母親が帰ってくるのを待っていた。
その時、通りかかった知らないおじさんが私達に声をかけた。「どうしたの?」と。

私は「ママがいないから、ママを待っている」と答えた。その人の表情や顔は暗くて思い出せない。その人は私達に「ママを知っている」と言った。私達はその言葉を信じてついていった。馬鹿だと思う。小学1年生とはこんなに危ういものなのかと今は思う。私には二人の妹がいるのだけれど、だからだろうか、どうしても過保護になってしまう。

ついていくと、その人は近くの林道に入った。
その人は急に立ち止まり「おしっこするから待っててね」と言ってズボンを下げた。

意味がわからなさすぎるタイミングだけれど、バカ正直に私はその少し隣で待っていた。ズボンを下ろしたその人は急に私の両頬を挟むように片手で掴んで自分の顔を近づけて、もう一方の手で私のお腹あたりを触った。そこまでついていった馬鹿な私でも、その時ばかりはこれはさすがにおかしいと思った。一瞬で全身に嫌悪感が広がった。嫌だと大きく声を上げると、弟が羽織っていたブランケットをその人に投げつけた。ミニーちゃんのブランケット。

この時の弟には感謝してもしきれない。
その人の手が私から離れたと同時に、私達は走って逃げた。

きっとその人がズボンをおろしていなかったら、普通に追いつかれていたんじゃないのかな、と思う。私は7歳で、弟は6歳だった。

家につくと母親がいて、物凄い剣幕で私達を叱った。夜中に外に出たこと、そしてブランケットを無くしたこと。子供心に私達が感じた恐怖を理解してほしくて色んなことを言ったと思う。そもそもママが帰ってこないのが悪いんじゃん、とも思ったし言ったと思う。母親が私達になんて言葉をかけたのかは、覚えてないけれど、その後安らかな気持ちには決してならなかったことだけは覚えている。
本当は「怖かったね、もう大丈夫」と言って抱きしめてほしかった。

その少し後に、妹のMが生まれた。
Mはとても可愛かった。ベビーカーを押して散歩に行ったり、Mの前でお得意のブリトニー・スピアーズのPVを真似して踊ってあげたり、Mをスッポンポンして全身くまなく写真をとったりして母親に怒られたり。私なりに精一杯かわいがってた。
(まぁ誰でも自分の携帯が赤ん坊の股の写真だらけにされれば怒りたくもなると思う。)

赤ん坊という不可思議な生き物への興味もあったのかもしれないけど、その頃から私は年の離れた小さな妹に対して深い愛情があったことだけは確かだ。

母親は高校生になった私に、私の父親と別れたのは父親が浮気したからだと言った。私はそれが事実だと知っている。そして母親は誓って自分はしていないと言っていたけれど。妹の父親は、私の父親ではないこと、そして父親の家を出て半年くらいで生まれてきたことからそれが嘘だということも分かっている。簡単にバレる嘘を付く母親はつくづく浅はかな人間だと思う。

その頃、朝起きると平然とした顔で半裸の顔の整った男性がいることがよくあった。驚くことに、その人は生まれたばかりの妹の父親ではなかったのだけれど。その人のことをメガネをかけているという理由だけで博士と呼んでいた気がする。でも、正直そこまで関わりがあったわけではなかった。
博士は母親の後の夫となり、私の愛しいもう一人の妹の父親になる人物だ。

小学二年生の春、離れて暮らす父親から水色の自転車が届いた。弟は赤だった。弟と私は跳ねるほど喜んだ。私は父親に会いたくて、その自転車に乗って隣町の父親のところまで行った。父親は突然現れた私を見て困惑していた。何を言われたのかとかは覚えてないけれど、今思えばあれは憐れみだったのかもしれない。私はきっとみすぼらしかったから。
父親は本当は仕事だったと思うのだけど、鰻を食べに連れて行ってくれた。食べ終わった後、父親はハイエースに私の自転車を載せて家まで送ってくれた。その後、母親にすごい剣幕で怒られた。どうして怒られたのか当時は全然わからなかったけれど、父親が私について母親に電話したからだった。

それからしばらくして小学二年生の冬休み。私はころんだ拍子に両手首を石油ストーブのやかん置きで火傷をした。痛みでパニックになってやかん置きから手を離せなかった。腕を引き離されるときにストーブに自分の皮膚が残っているのが見えた。不快な臭いだった。その後のことはあんまり覚えてないけれど、布団に横たわりグスグスと泣きながら両手首を冷やしていたことは覚えている。病院には行かなかったことも。

火傷の痕は今でも残っている。両手首に少し目立つケロイド。今はそこまで気にしていない。少し前にある男性に、別にそんなに目立たないよ、と言われてからあまり気にしないようになった。全くコンプレックスでないわけではないけれど、それを隠すために長袖しか着なかった10代前半と比べれば気にしてないと言える。

このあと三年生の春に父親のもとに引き取られることになるのだけれど。今日はこのへんまでにしておこうと思う。

また明日。


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