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『4月の告白』【エッセイ】

 変わる時は一陣の風のようには訪れない。

 人は過ちを犯した後、どのようにして更生するのだろうか。私はこれまでの罪を経て、今の『昔よりもマシだと思える自分』になったのはいつだろうか。

 嫌悪、憎悪、嫉妬、執着、そんなものから生まれる醜い心を、まるで偽善者が正義を振りかざすように暴言や暴力からイジメ、殺し、復讐へと置き換えた。

 あれが間違えだったと気づいたのはいつからだろうか。私に決定的な瞬間はなかった。それは常にいつの間にかであったし、『知らないうち』つまり今ではなく、過去のいつかの時点で既にそうなっていたのだ。
 きっとこの先もそうだ。今この時点の罪には今は気づくことができない。それが正義だと真だと信じているからだ。あなたは間違えている。そう言われたところですぐに変われはしない。それは私自身が真に気づいていないからだ。

 みんなが見苦しいほどに自分勝手な被害妄想に囚われて、自分が正しい自分は哀れだと思い込んでいる。所詮自分が一番に過ぎないのである。それはきっと私も然り。
 そんな自己顕示欲や自己陶酔、自己満足を満たすべく周りと関わっている。人間関係とはそれを突き付けられているだけである。

 自分が満たされなければ、相手との関わりはどんな関係であっても全てが『悪』なのだ。そして逆も然りである。

「あなたブスね」
 そう言われて腹は立つか?

「あなたキレイね」
 そう言われて腹は立つか?

 ブスにブスと言われれば腹が立つだろうし、歯も立たないほどキレイな人にキレイと言われても腹が立つのではないか?

 つまり結局のところ自分が満足いく答えでなければ、または自分の納得いく相手でなければ腹が立つのである。

 逆に依存はどうだろうか。どれだけそれが自分に悪影響であったとしても、心が満たされれば己にとってそれは『善』になりうる。

 「あなたしかいない」
 それはDVや暴言を許容するに値するか?

 「これしかない」
 他を失ってまでも本当に必要か?


 人は醜い。そんな人が多い。自分がそうでないとも言いきれない。
 世の中、自分勝手が横行している。しかし、人とはそういうものだとも思う。仕方ないと。

 自分に疑いが芽生えた時、それが変化の第一歩であり、自分を変えるチャンスとなる。

『私はこのままでいいのか』
『私は正しかったのか』
『私はいったい何者なのか』

 そういった疑問が生まれることが成長につながる。しかし、これは可能性に過ぎない。

 それでも、そういう側面に気づけているか、真に受けて考えられるか、向き合えているかどうかで違ってくる。気づいて少しでも改めようと心がけること、ふと思い立った時に我に返ること、それができるか。そうやって少しずつ変わっていった先に、過去を振り返り『あぁ、変わったな』と思えるのではないのだろうか。

 これに気づけない人は一生変われずに生きる。いや違う、一生変われずに死ぬ。または周りを殺すのだ。

 人の中にはこれに気づけていても、気づいてない人と同等の人になる人がいる。それは最も大切なものを失った人、生きる価値を意味を失った人、『自暴自棄』そうなればたとえこれまで気づいて歩めていても、奈落の底へ落ち闇へ引きずり込もうと手を伸ばす。

 そうやって救いようのない澱みが生まれる。

 そんな澱みだけがそこにはある。

 あなたは自分を疑ったことがあるか。

 私は、私を信じている。
 そして同時に私を疑ってもいる。

 私は何かしでかすかもしれない狂気を内に飼っている。秘めているのではない。飼っている。
いつでも『自暴自棄』になれば野に放つかもしれない危険を常に孕んでいる。

 それが私の『告白』である。




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メインのエッセイはどうでしたか。

この後にデザートでもいかがですか。

ということで、私がこれを書くに至った経緯や意図、その時の思いや感情などを知りたいと思った方はぜひ以下リンク先の『湊かなえ『告白』読書感想文。【デザート】』を読んでみてください。


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今回参加させていただいた企画。


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