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「本当のジェネレーションギャップ」が、たぶん「150年ぶり」に存在していると思う理由。

「反抗期」という言葉は、「社会の余裕」のようなものがあって初めて成り立つのだと思う。

 若い時は、いろいろと反発したくなるのだけど、もう少し大人になり、物事を分かるようになれば、今の社会のあり方に納得が行くようになる。それを正当化できるほど、歳を取ったら、それなりに経済的にも豊かになれる環境もある。

 そんな前提があれば、反抗期は若い時などの一時期で、大人になれば、現在の社会に一体化したとしても、そんなに不満は出ないし、社会自体に豊かさがあれば、不幸もそれほど多くならないはずだ。

 だけど、今は、社会にそんな余裕も根拠もなくなっていると思う。

ジェネレーションギャップ

「ジェネレーションギャップ」が指しているのは、あくまでも「違い」そのものなのです。そのため「ジェネレーションギャップ」を「世代間断絶」と訳すこともあります。

 その具体例として、こうしたことがあげられている。

 それぞれに一番面白いと思う映画をあげてもらうと、やはりジェネレーションギャップが感じられる。
 このように「ジェネレーションギャップ」という言葉によって、世代間で「知識・関心・考え方」に「差異があること」が表現できます。

 こうした例を見ると、この「知識・関心・考え方」に「差異があること」として「ジェネレーションギャップ」が説明されているが、それは、同じ世代であっても「差異があること」は当たり前で、個人的には世代間の違いよりも、個人間での差異の方がはるかに大きいと思う。

 その一方で、生まれた時からスマホがある世代と、固定電話しかなかった時代を生きてきた人間では、その感覚自体に違いがあって当たり前だし、それは進歩や進化がある限り、必然的に起こることだと思う。

 そういう「差異」はあって当然だし、その「差異」によって、世代間で葛藤もあれば、そのことで刺激しあって、それぞれにいい意味での変化を起こすことさえある。

「右肩上がり」の時代

 それほど歴史に詳しくはないけれど、人類にとって大きな本質的な変化があった場合は、そこに混乱が生まれ(それも大変なことだけど)、本当に変化するまでは時間がかかり、多くの場合は、一世代以上を要しているように思う。

 だから、単純化して言えば、親子の世代の間で「ジェネレーション・ギャップ」があったとしても、それは本質的な対立にはなりにくい。大枠は一緒の中での、小さな「差異」だから、それは深刻な違いではないように思う。つまり、同じ時代に生きている人間同士では、それほどの決定的な差異がないことの方が多い、という印象が強い。

 例外的には、戦争があると、その数年で破壊的な変化が嫌でも訪れて、日本の場合も戦争によって、劇的な価値観の変化があった。ただ、それから70年以上経った今から振り返ると、戦後生まれであっても、戦前の価値観をまだ忘れないようにして、場合によっては取り戻そうとしている人たちが一定数いるようなので、戦前と戦後によって、「ジェネレーション・ギャップ」は当然あったとは思うのだけど、そのギャップは、長い時間が経った後で、一部の人にとっては、ギャップでなくなっているのかもしれない、という見方さえできると思う。

 それは、厳密な歴史的な裏付けもないのだけど、実は日本の場合は、明治以来の価値観は、戦争を挟んだとしても、あくまでも「右肩上がり」の時代が続いているからではないか、と思う。

 それは、常に成長を義務づけられているように思える資本主義に合致しているような時代でもあるのだけど、だから「ジェネレーション・ギャップ」があったとしても、「右肩上がり」という大きな流れが共有できていれば、そのギャップは、「いつかは分かり合える」ものだった気がする。

「天動説」と「地動説」

 「ジェネレーション・ギャップ」を考えるときに、思い出すのが、「天動説」「地動説」のことだったりする。

 この書籍↑の中で、「地動説」が定説となり、根付いていった時のことに触れられているのだけど、その変化は思ったよりも緩やかで、それは「天動説」を信じていた人は死ぬまでそれを信じていて、だから、その「常識」の変化、世代が変わるまでは本格的に訪れなかった、ということらしい。


(その「地動説」を発見し、その価値観がどれだけそれまでと本質的な違いがあったのかについては、フィクションとはいえ、こんな感じだったのかと思わせるすごいマンガ↓があります)


 自分が生まれて、育って、大人として生きて、子どもの世代が生まれて育ち、自分が死ぬまで、さまざまな変化が訪れるとしても、「天動説」から「地動説」のような本質的な常識の変化や、産業革命のような劇的な進歩に立ち会うことは、あまりない。あったとしても、大人になってから、価値観そのものを根本から変えなくても、なんとかやっていけることが、歴史上は、ほとんどだと思う。

本当の「ジェネレーションギャップ」

 だから、その本質的な変化が訪れ、そして、自分の子ども世代が、完全に「変化後」に適応していて、自分が「変化前」に生きてきたのに、大人の途中で完全に「変化」が訪れてしまって、大人の自分の方が「適応」をしないと生きていけないという状況は稀で、だけどそれこそが「本当のジェネレーション・ギャップ」だと思う。

 そういう場合は、子ども世代が若い頃に主張する価値観は、すでに「反抗期」などと言えるものではなく、「変化後」の「正しい価値観」になるはずだ。

 このとき、親の世代は、自分の価値観を変えるか、もしくは変えられないとしたら、これからの「変化後」の時代には生きていけない、という覚悟さえ必要になってくる。どちらを選択しても、とても厳しい状況になる。

 そして、それが、現在だと思う。

「右肩上がり」と「右肩下がり」

 現在の親世代、そして、高齢者となった年代にとっても、多少の波はあったとしても、経済だけでなく「右肩上がり」していくのが人間社会である、という価値観が、はっきりと意識しないくらい体に染みている印象がある。(自分もその旧世代だと思う)。

 この番組↑で、20代の若手と言われるミュージシャンが出演し、話題の本道ではなかったのだけど、少しつぶやくように、生まれた時から、ずっと不況だったんで、という言い方をしていた。それは、「右肩下がり」の中で生きてきたら、当然の感覚だろうけど、ただ、それが自然の環境であれば、不況という表現は、自分の実感よりも、外側からの言葉に合わせているのかもしれない、とも思った。

 だんだん、下っていくのが当然で、これから先に右肩上がりになることはなく、だから、その中でどうやって生きていくか。それが、今の若い世代の「価値観」だとすれば、それが適応する、ということだろうし、それは同時に、これからを生きていくのであれば、「正しい価値観」だとも思う。

 通常は、こうした本質的な価値観の変化は、もう少しゆっくりと訪れることが多いから、現在のように、親世代が「右肩上がり」で、子ども世代が「右肩下がり」の価値観で、本質的な対立をするような、「本当のジェネレーション・ギャップ」になることは少なく、おそらくは歴史上でも稀な時代であるはずだ。

 特に大人の世代(旧世代)が、若い世代の価値観に対して「反抗期」といった捉え方をせずに、子ども世代(新世代)の方が、これからの時代を考えたら、自分達とは全く違うのだけど、「正しい価値観」であることが多いと認めた方が、現在の「本当のジェネレーション・ギャップ」の時代に、必要以上の深刻な対立や、問題が起きることを、少しでも減らせるような気がしている。


(この書籍↓の著者は、年齢的には「旧世代」でもあるが、これから必要になる価値観について書いていると思う)。


 何の根拠もない個人的な感覚だけど、次に「本当のジェネレーション・ギャップ」があるとすれば、科学的に未来の「人類滅亡」が明らかになり、それに納得する「新世代」と、それはなんとか回避できると信じる「旧世代」の対立ではないだろうか。




(他にも、いろいろと書いています↓。よろしければ、読んでもらえたら、うれしいです)。




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