初めて、「バリアフリー映画」を見に行きました。
中年になってから図書館をよく利用するようになった。
その頃は、仕事もやめざるを得なくなって、介護に専念する生活だった。何も先が見えなくて、辛くて、このままだと何もないのだから、などと思って、なぜか、急に、それだったらほんの少しでもいいから賢くならないだろうかと思って、本を読むようになった。
収入もないから、本を買うこともほとんどできず、図書館に通うようになった。そのうちに、インターネットを使って予約などもできるようになって、だから、より利用することになった。
図書館
そうすると、それまでよりも、図書館のありがたさを強く感じるようになった。
2週間に一度は通うようになって、本やCDの貸し借りや予約などについて、スタッフの方々の的確な対応によって、必要な図書も読めることが多い。
ありがたい。
さらには、季節によって、図書館の入り口付近などに造花を飾ったり、地元の方が制作した「作品」が並べられて、それは、建てられてから年月が経って古い鉄筋コンクリートの建物になってしまったから、それでも少しでも快適さを作ろうとしている工夫に思えた。
そういう気持ちもなんだかありがたいと思っている。
企画
図書館は、色々な企画をしている。
それについては、自分が参加したいものばかりではないのだけど、今回、興味を持てたのは、映画の上映会だったからだ。
『おらおらでひとりいぐも』。
原作は、著者が50代から小説を書き始め、60代で芥川賞を受賞したことでも話題になった作品で、この図書館で借りて読んだ。
歳をとって、夫に先立たれ、子どもはいるけれど、微妙に疎遠で、それでも一人で生きていく毎日を、その内面も含めて、正確に描写した小説だと思った。
妻も読んでいて、面白いと言っていたので、それが映画化になったのは知っていたけれど、その頃はコロナ禍で、ほとんど外出もできなかったから、最初から見るのを諦めていた。
だけど、田中裕子主演ということもあり、ずっと俳優としてすごい人だと思ってきたから、見たい気持ちがどこかにあったのを、この図書館での上映会があるという小さいめのチラシを見て、気がついた。
バリアフリー
少し違っていたのは、「バリアフリー映画」という文字が添えられていたことだ。
バリアフリー、という言葉自体は知っていた。最初は、車イスなどでも移動が楽なように段差が減っていくことのようだった。私自身が介護をしていたのは、20世紀の末から約20年間だったから、その年月の中で、バリアフリー化が進んでいくのは実感はしていた。
介護を始めた当初は、駅の階段で数段しかなくても、何人かで持ち上げたりして、少し腰を痛めたこともあったのだけど、そのうちにエレベーターが設置されてきたのは、やはりありがたいことだった。
それは、21世紀にもなったし、時代の進歩なのだろうと思ったりもしたが、少しでも本を読んだりすると、そうではないことも教えてもらった。
そうした基本的なことさえ、自分も義母が乗る車イスを押して駅を利用していたのに気がつかなかった。
それに、自分たちが利用していた様々な制度も、都内に住んでいて、実は恵まれていたかもしれないことも分かっていなかった。今回も図書館で「バリアフリー映画上映」が行われるのも、そうした恩恵だったのかもしれない。
申し込み
妻に相談したら、映画も見たいというので、久しぶりに二人で見られるし、それに無料だというので、その申し込みの日に、ちょっと焦って電話をした。そうしたら、こちらのあわてる気持ちを普通に受け止めてくれ、二人分の予約ができた。
それで、ちょっとホッとした。
少し時間が経って、今回の上映会が「バリアフリー映画」であることを改めて思って、再び、図書館に電話をした。
返って、面倒くさくなってしまうかもしれないけれど、視覚障害や聴覚障害の方のための映画のはずなので、もしも、申し込み人数が多くなり、定員を超えてしまって、そうした方々の申し込みがあったときは、私たちは辞退したいと思うのですが、といったことで電話をした。
なんとか通じたと思うが、こうした行為がかえって、いろいろと微妙な迷惑をかけるかも、と思った。
申し込んだ日から、日数が経ち、連絡もないので、無事に行けそうだった。
階段
この10年くらいは、図書館に、ほぼ2週間に一度は通っているはずなので、かなり頻繁に訪れている場所だけど、それでも、おそらくは私よりもいつもここにいる人がいて、ちょっと驚いたりもするし、そういう人を、しばらく見かけないと、勝手に心配な気持ちになったりもする。
何年か前に近所の方から自転車をいただいてからは、それに乗って一人で図書館に行くことが多くなったので、妻と二人で歩いて行くのは久しぶりだった。
図書館まで15分足らず。
上映まで少し時間があった。
地下一階の部屋だから、やや急な階段がある。
私たちの前には高齢の女性がいて、どうやら足の調子が良くなくて、階段を降りられない、という話になっていた。
バリアフリー映画の上映会だから、当然、ここには階段しかなくても、建物には職員用であってもエレベーターはありそうだから、そこにすぐに案内されるのでは、と思っていた。そうしたら、その対応をしていたベテランの男性が、少しお待ちください。私は責任者ではありませんので、聞いてきます、といった答えだった。
もしかしたら、今回のバリアフリーは、聴覚障害や視覚障害だけが考えられていて、身体障害のことは意識していなかったかもしれないが、不思議な光景に見えた。
それでも、私たち二人が、地下一階の部屋に行き、座っている時に、その女性はカーテンの向こうから現れたから、適切な対応がとられたのだろうと思って、勝手にちょっとホッとはした。
バリアフリー映画
時間前に職員の方から、あいさつや説明などがあって、映画は割とすぐに始まった。
畳2畳分くらいの大きさの白いスクリーンに映像が投影される。
最初は、地球の誕生みたいなスケールが大きく、はるか昔のことから始まった。それに対して、科学番組の冷静さ強めのナレーションのような説明が入る。そのことで、その映像に何が映っているのかわかるのだけど、これが、視覚障害者用の音声のようだった。
字幕はずっと映っていた。
それは、義母が耳が聞こえなくなってから、近所の電気屋さんにお願いして、字幕のサービスがある番組は、普通にテレビのスイッチをつけたら、いつも映し出されるようになっていたので、少し慣れがあったけれど、視覚障害者向けの音声は初めてだった。
主人公が誰かに向ける視線も、優しげに見守る〇〇さん、といった言葉がかぶさるので、普段はない音声のために、健常者にとっては、情報が多くなるし、ずっと言葉が聞こえるから、どんな場面でもかなりにぎやかな印象になる。
このことに対して、バリアフリー映画ですから、といった断り書きがあったのか、と思ったけれど、こうした言葉があることによって、映画はいろいろな人に楽しめるものになるのだろうし、その上で、俳優の声の演技が、よりシビアに判断されるから、いわゆる棒読みで演技が下手、と言われている人が出演する映画は、言葉の説明があったとしても、より苦痛が増すのかもしれない、といったことも思った。
この映画は、高齢になり一人暮らしになった主人公を田中裕子が演じているし、若いときは蒼井優だから安定感もあるし、そして、夫が東出昌大で、「いい男だった」という回想も、説得力が増した。
原作の小説とは違って、しきりに登場する自分の内面的な声を、「さびしさ」として擬人化し、しかも3人の男性(濱田岳、青木崇高、宮藤官九郎)に演じさせていることで、やや開かれて、印象も明るくなった。
字幕にも、言葉の多さにも途中から慣れていき、ただ、字幕も音声もない映画を見た時とは、違う印象になっているのだろうとも思っていたが、歳をとっていくことに対して、怖さも含めて、いろいろなことを感じられたから、いい映画だったのかもしれない。
全部で上映時間が2時間以上の映画だったので、途中で休憩も入った。
その時にトイレに行くこともできたし、もっと寒いと思っていた地下一階の、時々、もう廃棄処分になる図書を配布する場所としては来たことがあったが、いつもは使っていないと思われる地下一階のスペースもそれほど寒くなくて、比較的、集中して鑑賞することもできた。
小説の原作を読んでいて、それを映画化した作品で、さらにはバリアフリー映画で、といくつも意味が重なって、新鮮な体験にもなった。
数十人とはいえ、大勢の人と同じ映画を見るのは、やっぱり家のテレビで見るのとは違うことだと改めて思った。
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