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宇多田ヒカルのインタビューを読みたくて、「VOGUE」を借りた。雑誌の特別さも、再認識した。

 音楽的に、どこまで理解しているか分からないけれど、1990年代を生きていた時、よく聴こえてきたのが「宇多田ヒカル」だった。同時に、その頃、宇多田ヒカルは10代だったのに(だからこそ、なのだろうか)、言葉への意識の持ち方が、とても高いように思えた。

宇多田ヒカルの言葉

 当時の歌番組は、トークの時間も長かったのだけど、その中で「失礼でないタメ口」を宇多田ヒカルは、自然に使っていた。

 敬語や丁寧語は、相手を「上」にする、というよりは、距離をとるための言語でもあるから、常に「タメ口」の人は、相手と近くても大丈夫、という、ある種の勇気も感じるのだけど、宇多田ヒカルの「タメ口」は、その距離感も適切で、しかも、失礼とは思えない絶妙な言葉遣いをしていると思っていた。

 雑誌のインタビューか何かで、宇多田自身も10代だった頃に、日本では10代の女性の若さ(言葉は違っているかもしれない)の価値が高すぎる、といったことを発言していて、この人は、どうして、こういうことが見えているのだろう、そして、表現できるのだろう、と感心と不思議さを感じていた。

音楽

 一時期、「人間活動」を理由に、表舞台から姿を消した後、音楽活動を再開したときは、それほど音楽に詳しくない私のような人間でも、素直にすごいと思った。

 復帰の第1作は、個人的には、新しさもあるものの、全てが追悼という個人的な思いに満たされているようにも感じ、それでいて、広く伝わるように聴こえた。

 その後も、自分のやりたいことをやりながら、それが商業的にも成功しているように見えたし、興味が向く方向に、自然に新しさもある活動を続けているように感じ、個人的には久しぶりにCDも購入した。

 なんだか、すごいと思った。

ジェーン・スー

 2022年には、ラジオか何かで宇多田ヒカルのインタビューを、ジェーン・スーがおこなった、ということを知った。どちらも、とても考え続けている人でもあったから、この組み合わせは、個人的には見逃せない、みたいな気持ちになった。

 だけど、そのインタビューが載っているのは、「ヴォーグ」だった。自分のような人間からは、最も縁遠い存在の一つだと思っていたし、貧乏でもあったので、図書館で借りることにして、予約をした。

 手元に来るまで、4ヶ月かかった。

宇多田ヒカルのインタビュー

「ヴォーグ」のインタビューは、宇多田ヒカルが希望して、インタビュアーがジェーン・スーになったという。そして、その見極めは的確だと思わせるような言葉が、あちこちで目に飛び込んでくるような気がした。あまり断片的に切り取るのはプラス面だけではないけれど、それでも伝える価値があると思えるくらいだった。

 最初は、世界最大級の音楽フェスの「コーチェラ・フェスティバル」に参加した話から始まった。

 キャラ的にも歌唱法にしても、私はあまりフェスに向いているタイプでもないし、きっかけもなかったんです。

 そんな冷静な分析は、実際に参加した時のことに対しても及んでいる。

私のステージだけダンサーたちの私服で踊ってもらいました。結果、全体的にリラックスした、温かい感じになったかな。

 明確な狙いがあり、その上で結果を断定をしない距離感も保っている。

「人間活動」

 イギリス滞在が10年になることについて、ジェーン・スーに尋ねられ、その宇多田の答えによって、「人間活動」が何かについて、やっと明確になったように感じた。

「暮らし」がある。日本の生活では、私の存在の仕方には「暮らし」というものがなかったんです。

 その時は、自分で稼いで、思ったことも言って、独立した人間と見られていたかもしれないけれど、と振り返りながら、宇多田自身は、こんなふうに感じていたという。

誰かに飼われているペットみたいな感じで。

 そして、いつも人目があった。

人目を気にしながらだと、本当の行動に感じないというか。行動することの本質にある部分が、すっ飛ばされちゃう。今を生きて、今の瞬間にいようとしても、誰かに気づかれたらこうなるとか思いながら行動していると、何のために何をしてるかわからなくなってしまう。自分で何もできないままお仕事し始めた15歳の状態のままおばあちゃんになっていくのを想像したらすごく怖くなって。そういう部分の成長が必要だと思い、〝普通の暮らし〟をロンドンで始めました。全部自分でやって、ちゃんと自分の力で生きているという実感を初めて持ちましたね。

 自分の思いや気持ちに対して、とても厳密に語ろうとしているようだし、行動の本質について、これだけ正確な表現ができる人は稀だと思った。

人間関係と自分自身について

 ジェーン・スーという優れた聞き手がいてからこそだと思うのだけど、人間関係についても、普遍的でありながら、新鮮に感じる言葉が続く。

感情を良いものと良くないものに分ける考え方が、私は好きじゃなくて。

正直、どうでもいいような対人関係の小さな恐怖心に足がすくむことはよくありますが、大きな恐怖心には、恐怖を感じながらその恐ろしいものに向かっていく、ということを繰り返している気がします。 

 子どもの周囲の、親や大人の大事な役割の一つについて、「自己肯定感」を育むこと、を挙げるが、それについても、かなり厳密な言葉を選んでいる。

自己肯定感は、なんでも「いいよいいよ、最高」って言うことじゃなくて、子どもが何かの理由で悲しいと思っていたら、大人からしたらたいしたこと理由じゃなくても、「悲しいよね」ってその都度認めてあげること。そういうところから自己肯定感って芽生えてくると思うんですね。自分がこの気持ちであることはオッケーなんだって。

 そして、最後に、自分自身を理解する作業について、どのくらい到達できた感覚なのか?といった質問に、こう答えている。

そうですね。何かを知ることって、知れば知るほど、自分がいかに知らないかを知ることですよね。ただ、自分への信頼みたいなものがだんだん養われていっている気がします。それが世界への信頼とか、他者への信頼に繋がっていくのを感じています。

 人を露骨に鼓舞はしないけれど、やはり、静かに背中を押すような言葉だと思う。


(こうして、ここまで部分を引用していますが、少しでも興味が持てたら、全文を読んでもらうことを、おすすめします。人によって、違うことを感じるような気もします。また、この全文が公開されているのを、恥ずかしながら、この記事を書いているときに気がつきました)。

「ヴォーグ」という雑誌

 いわゆる「ファッション業界」で、「ヴォーグ」という雑誌は、かなり特別なのかもしれない、という印象はあった。

 だけど、あまりにも縁が遠く、だから、その高い評価も、もしかしたら、どの業界にもあるような、政治的な過大評価もあるのではないか、という疑いもあって、それでも、今回、宇多田ヒカルのインタビューがあるので、「ヴォーグ」を初めて、ちゃんと読んだ。

 すみずみまで、かっこよかった。

 スキがなくて、どこか近寄りがたい感じまであって、特別だと扱われている感じも、少しだけ分かったような気がする。

 とても注意深く、貧乏くさかったり、ダサいことを取り除いてあって、その厳密さみたいなものは、すごいと思った。

 広告もシャープで、きれいだったけれど、その中で、唯一、馴染みがあったのが、「Onituka Tiger」だった。

 サッカー部の部室に、使い込まれて、土にまみれて、何足も、あちこちにあったようなシューズで、「オニツカ」と呼んでいたのに、年月が経ったら、ものすごくおしゃれで「別人」になっていて、それは、不思議な思いにもなった。

 

 そこにある紙の雑誌を手に取り、めくって、ちょっとだけ普段と違う感覚になり、なんとなく気持ちよくなる。おそらく、そういうことでしか味わえない特別な感覚も久しぶりに思い出した。 




(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。




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