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「その熱心さを、少しでも勉強に向けてくれれば」という「言葉」に思うこと。

 私には子どもはいない。

 だから、教育に関しては、何かを語る資格はないような気はするのだけど、逆に言えば、子どもの立場での気持ちは、比較的、いくつになってもおぼえているのかもしれない、と思うこともある。

 それに、すでに古い言葉になっているかもしれないけれど、「子宝」という言葉があって、それは時々本当だと思えることもあるし、それは、子どもは親だけではなく、社会の宝、といったニュアンスもあるように感じる。

 だから、大人である以上、教育については、考える義務があるのでは、とも感じる。


親の言葉

 幸いなことに、というか、時代が古いのと、学習塾がないような地域に住んでいたこともあったせいか、小学生の頃に、親から「勉強しなさい」と言われた記憶がない。

 それは、自分に興味がある事を勝手に、ノートにまとめる、といった行為をしていたから、それが、全部が勉強のわけがないのだけど、そういう子どもに向かって、「勉強しなさい」といった事を言うのは難しいのだろうとは思う。

 だけど、親同士の会話の中で、何かに本当に熱中している子どもを見て、「あの熱心さを、少しでも勉強に向けてくれればねえ」と苦笑とともに会話をして、その言葉は、そこでは共感されているようだった。

 その言葉は、子どもの頃は嫌だった。

 なんだか、すごく都合がいいというか、勉強だけがあまりにも重視されているような気がして、その熱中していること自体を否定されていて、つまりは、自分が大事にされていない感覚になるせいだと思う。

 だけど、それは、その後に社会の構造を考えたとき、特に日本の場合には、まだ学歴社会で、自分が生まれた家に有力なコネクションがあったり、財産が豊富にあるわけではなければ、いわゆる「いい大学」に入学することで、そこで知り合った人間関係によって、その後の社会的成功の可能性がやっと出てくる、ということを親の方が知っていたから、そういうことを言っていたのだろうとは思う。

 それでも、随分と時間が経って、自分が大人になって、同世代が親になったとき、やはり同じように「あれだけ熱中しているけれど、それを少しでも勉強に向けてくれれば」と言っているのを聞いて、年月が経っても変わっていないこと、その違和感も変わらないことを思い出した。

将来のこと

 その違和感について、今になって考えてみると、その違和感は、実は現代の方が意味があるのかもしれない、と思うようになった。

 何かに熱中する子どもを見て、勉強の事をつい思ってしまうのは、今だに学歴社会でもあるし、どちらにしても勉強をしていた方が、その子どもの将来について「プラス」もしくは「得になる」という発想で、それも自然ではないかとも思う。

 ただ、21世紀になって、将来はよりよくわからなくなった。

 本当は、未来のことは、いつも分からないし不確定なのだけど、常に、過去より現在の方が、より不確定に思えるのは、まだ誰も知らないせいだけかもしれない。

 それでも、今はAIが目に見えるように進化してきて、子どもが大人になる頃には、現在の仕事の半分近くはAIがしている、といったCMも聞いたことがあるから、今の時代の親は、より不安が増しているはずだ。(何か他人事のように言って、申し訳ないのだけど)。

 だから、(ある特定の)この分野を勉強しておけば、将来に有利といったことは、ほとんどわからなくなっている。少し前には、脚光を浴びたものがたちまち古くなっていく。そうなると、将来のため、という目的のために、そのこと自体を身につけるために、極端な場合には苦痛を乗り越えているのに、それがムダになる可能性だけが高くなっている。

 そうであるならば、どうしたらいいのか、分からなくなる。

 だから、よけいに、とりあえずは「その熱心さを、勉強に少しでも向けてくれれば----」と言いたくなるのも理解はできる。

熱中すること

 それでも、少し冷静に考えれば、傍らから見ていて、感心するほど、もしくはあきれるほど、あることに熱中し、場合によっては空腹すら忘れる。それほど、何かに熱中できることは、子どもにとっても、大人にとっても、稀なことのはずだ。

 個人的にも、子どもの時にそこまで熱中した記憶もないし、若い時に、今で言えば「推し」がいて、他のことを忘れるほど夢中になったこともない。

 仕事にしても、集中はしているはずだけど、周囲の音が聞こえなくなるくらいのことはないし、どんなことでも、何もかも捨て去っていいほど、好きになったようなこともないと思う。

 それは、周囲の人を見ても珍しくなく、何かに対して、寝食を忘れるほど好きになったり、自分の財産をなくすほど入れ込むような人は、ほとんどいない。私と同じように、ほどほどの熱中に留まっている方が多数派のように思う。

 だから、子どもの時に、親が「勉強にも向けてくれれば」と思うほど、何かに熱中する、ということ自体が、実は「才能」なのだと気がつく。

これからのこと

 少なくとも、自分の好きなことに忠実になり、そこにほとんどすべてを注げる機会があったとしたら、それ自体がチャンスなのだと思う。

 つまり、自分が好きな事を見つけ、そこに集中しているときは、おそらく自分の能力が生き生きと発揮し、努力や工夫という意識がなくても、最大限の努力や工夫をしている。

 今の表現でいえば、最高のパフォーマンスをし、ゾーンに入っている、という状態になっているはずだ。

 その経験自体が、得難いことのように思う。

 これからのことは、誰にも正確には分からない。だから、どうやって生きていくか、を考えるとき、何をすれば得なのか。安定した仕事になり得るのか。といった点について、より分からない。

 とすれば、何をするにしても、自分が好きで熱中できることに関して、敏感で正確な判断ができるかどうかが、今より大事になってくるように思う。

 その能力を身につけることが、まず第一で、それがあれば、おそらくは幸せになれることを選択する可能性が高まるはずだ。

 そして、その好きで熱中できることが、仕事に直結すれば、その仕事で少なくとも自分の力を存分に発揮できるし、仕事の時間が楽しくなりやすい。

 もしも、その好きで熱中できることが直接仕事につながらないとしても、自分が幸せな状態になれる方法を、まず知っていることは、有意義だと思う。

 その上で、その好きで熱中できる感覚を知っていれば、仕事を見つける時には、その感覚に入りやすい「仕事」に対して敏感だから、周囲の評判などの外部的な条件に惑わされずに、自分に「向いている」仕事を見つけやすくなるはずだ。

 子どもの頃に、好きで熱中していたとき、それをもう少し勉強(必要とされること)に向けてくれれば、といった親の思惑を慮って(それ自体も優しさだとは思うけれど)、その熱中したいことに触れる時間を減らしたりすると、自分が本当に好きなことに取り組むことへの感覚も、つかみきれない可能性も出てくる。

 これからの不確実な時代に大事なことは、自分がなるべく苦もなく取り組める仕事を探せる能力で、それは、自分が好きで熱中する、という時間を経験していないと難しいと思う。

 とすれば、子どもの時に、好きで熱中できる事を見つける自体が才能で、そのときに、健康を損ねること違法だったりする場合は別としても、なるべくその行為を見守ることが、実は、その子どもの未来を明るくするのではないだろうか

 そうだとすれば、「あんなに熱中するなら、少し勉強の方もやってほしい」という言葉は、子どもにとって、自分を大事にされていないようなガッカリ感だけではなく、これからは、その子どもの将来のためにも、もしかしたらマイナスになる言葉といわれるかもしれない。

 全ては、自分の経験に基づく仮説で、だから思い込みに過ぎない部分も多いけれど、一度は考えてほしいことでもある。




(行動遺伝学の視点から考えた「子育て」に関しての、様々なことは、とても読む価値があると思います↓)。



(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。





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