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「天才」が多すぎる理由を考える。

 サッカー評論家・セルジオ越後は、いつも少し怒っていて、日本のサッカーに対して辛口な印象もあるが、それは、ブラジルで生まれてサッカーをしてきて、日本に来日して長くなったとはいっても、体の中に「世界基準」があるからではないか、と思っている。

天才

 ある日本のサッカープレーヤーに対して、「天才」という形容詞がつくことがあった。

 そのことに対して、セルジオ越後が、日本代表のレギュラーもとれない選手に、天才なんて言ってはダメではないか。天才は、今ならメッシのような存在に対して使う言葉だと思う。と少し怒りをこめながら話していたか、書いていたのかははっきりしないものの、そんな内容だったのを覚えているのは、その言葉に納得していたからだった。

 そのプレーヤーは、技術は高いとは思うけれど、「天才」と呼んでしまうのは、かえって、その成長を阻害してしまうような気持ちもあった。

 もちろん、人によって違いはあるとしても、個人的には、基本的に「天才」という表現は、地球上で一人くらいの才能に対して使うのが、特に公の場所では、適切だと思っている。

増える天才

 電車の中でも、車内広告で、「マーケティングの天才」を知った。

 失礼ながら、全く知らない人だったけれど、「にしたんクリニック」は、コロナ禍の初期に、自宅でPCR検査を受けられることを、そういえば電車の広告でもよく見ていて、その対応の速さに商売のうまさを感じたのだけど、そこが、美容整形の病院だというのは知らなかった。

 その後は、郷ひろみのCMで「にしたん」と繰り返しているのは見たことがあるし、確かに、私でさえ名前を覚えてしまったのだから、そのマーケティングや、宣伝戦略は巧みかもしれないし、成果を上げたのだから、間違いなく有能な人なのだと思うし、その業界では「スーパースター」なのかもしれない。

 だけど、天才は地球上に一人、と考えると、例えば、今だとイーロン・マスクのような人(よく分かっていなくて申し訳ないけれど)よりマーケティングで優れていないと、(やっぱり)天才と言ってはいけないような気もする。

ニッポンすごい

 ここ何年かで、「天才」と言われる人は増えたような気がする。

 それは、特に日本国内の人に対して使われることが多いような印象があるから、例えば、テレビなどで、いわゆる「ニッポンすごい」番組の増加する現象と関係があるのかもしれない。

日本を称賛するメディアについて、それは日本人の自信のなさの表れだという考察もある。

 国全体が不況で、下り坂で、だからこそ、すごいと思い込みたくて、活躍している人(特に日本人)に「天才」とラベリングすることで、まだやれる、という気持ちを持ちたいのだろうか、といったことも考えた。

掛け声

 ただ、すぐに、なんとなく、そんな複雑な理由はないのかもしれないと思うようになったのは、「天才」と言われる気配がとても軽くなっていて、地球上で一人を基準にするといった面倒臭いことをしないで、なんだかすごいような人に対して、「天才!」と言っているだけのように感じてきたからだ。

 とても難しい大学に現役で合格するのは、優秀だと思うのだけど、それに「天才」という表現がつくのは、なんだか違うと思ってしまうのは、もしかしたら、私自身が「天才」という言葉を特別視しすぎているだけで、そんなややこしいことは考えずに、今は「すごい!」と同じくらいの表現になっているだけなのだろう、とも思う。

 昔は「社長!」が気軽な褒め言葉だったのと同様に、自分が知っている狭い範囲内だとしても、この人はすごい、と言いたいときに「天才!」と言っておけば、相手も喜ぶし、自分の称賛も伝えられる便利な言葉になっているだけかもしれない。

 だけど、それは、単純に、人への見方が粗くなっている可能性もある。

「天然」

 このドラマは、大阪の名建築と言われる建物をめぐり、そこで食事もするというストーリーで、その本筋とは違うのだけど、その主人公の女性が、自分の友人のことを、こんなふうに語っている。

 マイペースすぎるけど、でも、その友人に対して、他の友人が「天然」とすぐに言って、遠ざけるのもムカつく。

 ドラマはフィクションに過ぎず、現実そのままではないにしても、現代に放映される限り、その脚本は現実離れをしているとも考えにくいので、似たようなことはあるのでは、と考えられる。

 そうであれば、「天才」だけでなく、マイペースな人に対して「天然」というラベリングがすぐに貼られ、そして、そのことで面白がられたり、といったことではなく、遠ざけられるらしい。

 もしかしたら、これだけ同調圧力が高くなると、自分と異質のものに対しての拒否感が強くなり、優秀だと「天才」。マイペースだったりすると「天然」。理解し難いと「異常」。

 そんなラベリングがすぐにされるのかもしれない。

 それも、時間をかけて付き合ってから、その人の特徴を考えた上で、どのような人なのか。どんな人でも持っている多様な側面に目を向けるのではなく、そんないくつかのラベルのうちの一つを貼って、そして、自分と異質と感じられる場合は、遠ざけて終わり、ということになっているのかもしれない。

 だから、「天才」も、これだけ多くなっている可能性はある。

成果

 何に急いでいるのか分からないけれど、いろいろな意味で現代は、余裕がなくなっているようだから、例えば「天才」と言われる人たちは、今の時点だと、目に見える成果を出している、という共通点はありそうだ。

「マーケティングの天才」と言われる人は、具体的な利益を生んでいるし、他の分野でも、現在の「天才」と言われる人たちは、きちんと分かりやすい成果を出しているし、もしくは金銭につながっている場合も多い。そうでない場合は、テレビ番組のタイトルにあったように「消えた天才」として、存在そのものが過去に閉じ込められてしまうように思う。

 ある意味でロマンチックすぎることだし、言われるほど、そんな存在は少ないとはしても、明らかに「天才」であるのに、生きているときは「天才」が故に認められず、かなり大変な生涯を送ることになり、死後に評価される「悲運な天才」は、これだけ情報技術が発達する中で、絶滅してしまったのかもしれない。

 ただ、そういう人は、とても稀な存在としても、もし現在に実在した場合は、よくて「天然」、ひどい場合は「異常」とラベリングされ、遠ざけられてしまっているのではないだろうか。

 そんなふうに考えると、現在に「天才」が多くなっているのは、才能がある人が増えている、というよりは、その時々の成果に対して「天才」と評価され、存在として「上」かもしれないけれど、自分たちとは異質とされ、どちらかといえば、遠ざけられるための名称になっている可能性はある。そして、「天然」は隅っこへ、「異常」は下へと位置づけられる。

 大げさに言えば、ちょっとでも「わかりにくい」ものは、もしかしたら、憎まれるような存在になっている可能性すらある。

排除のスピード

 もしかしたら、考え過ぎかもしれないけれど、多様性の時代と言われながらも、ちょっとした異質感に対して、とても敏感になり、それを時間をかけて見ていくよりは、ラベリングと緩やかな(分類という名前の)排除のスピードが速くなっているだけなのかもしれない。

 本来は、当然だけど、人間は複雑で面倒臭くて、「わかりにくい」存在でもある。

 だから、人を理解するのはとても難しいし、本来は不可能に近いことだし、出来るとしても、とても時間がかかる、という原則は変わらないのに、そんな面倒くさいことは無視されるように、「わかりやすい」部分だけを取り出してより速くラベリングする、といった表面的な能力だけが、これからも、より重宝されていくような気もする。

 その前触れとしての、「天才」の多さと考えると、ちょっと暗い気持ちにもなる。

「シンプルさ」「わかりやすさ」を突き詰めるほど、僕たちの視野は狭まるようになっている。 

  ビジネスの成功者も、こうしたことも書いているので、私も、そんなに間違ったことを言っていないような気もするのだけど、どうだろうか。




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