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子どものことを心配しすぎる時は、自分の人生への信頼が揺らいでいる時

子どもが喧嘩をした時。

子どもが挫折した時。

子どもが涙を流す時。

そんな時、親なら、どうにかしてあげたい、手を差し伸べてやりたい、辛い心の内を聴かせてほしいって、思うもの。障害物があれば取り除いてやりたいし、友人との亀裂を修復してあげたいって思う。人生の先輩として声をかけてやりたいって思う。慰めの言葉や励ましの言葉を贈ってあげたくなる。

私の場合、子どもが幼い時は、泣けばぎゅっと抱きしめていた。泣きやむまで静かに抱きしめた。私は中断された家事について考えることをストップし、とにかく子どもだけを思い、ぎゅっと心を込めて抱きしめた。一旦、子どもの気持ちがおさまって、私の元から離れていったらもう大丈夫だった。

もちろん、必要な時は、問題解決の力を添えてあげた。最低限のことしか手助けしないように心がけているたし、今でもそうだ。でも、私の心はざわめく、先走って、あれこれやってあげたくなる。子どものことが心配でならないから。

ある朝、突然、自分のうちに新しい疑問が湧き上がってきた。

本当に子どものことを信じているのか?って。

そういう問いを自分自身に投げかけ、飽きもず逃げもせず、ただただ問いかける。

子どもの秘めた力を信じているのか?

子どもの見えない力を信じているのか?

何度も何度も繰り返し自分に問いかけていると、いつの間にか、問いが変化しているのに気が付く。

自分の人生を信頼しているのか?

子どものことを心配しすぎてしまう時、とっても根源的な問題として自分の人生そのものに対して大きな信頼を寄せていないのだろうって、ふと思った。子どものことを心配しすぎる時は、自分の人生への信頼が揺らいでいる時だと。

人様には言えないような生と死をさまようような辛い経験もそれなりにしてきた私。暗闇に葬りたいような筆舌に尽くし難い過去をそれなりに経験したからこそ(きっと私だけが特別ではなく、どの方にもそのような過去があるのだと思う)、何があっても大丈夫だって思える。だから、人生には信頼を置けているんだろう。これから大変なことに遭遇しても、なんとかなるっていう根拠のない信頼感。

そのことに気がついて以来、子どもを心配することがほとんど無くなった。この子も大丈夫。自分で仲直りする力を秘めているし、挫折しても自分で立ち上がる力を秘めているし、人知れず流す涙も自分で拭い去り笑顔になる力を秘めている。時には辛辣な人生を味わうかもしれないけれど、それでも大丈夫だと確信がある。子どもをシンパイすることからシンライすることへと、大きく方向転換を果たしていた。

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すっかり子どもは大きくなって、思春期真っ盛り。反抗的だし、汚い暴言を吐くし、ルールを破ってみたりするし、ティーンエイジャーらしく思春期を順調に通過しているところだ。感情はジェットコースターのように激しいもので、穏やかな姿を見せたかと思うと、次の瞬間には目玉が飛び出るぐらい感情的に爆発している。

そんな激しくダイナミックに揺れ動く時期に、親として泰然と見守ることができているのは・・・もちろん心配しないわけがないって思わされるような想定外のすごい出来事も起こるけれど、彼の辛い体験も必ず成長の糧となるはず・・・やはり、子どもの秘めた力と人生に信頼を寄せているからこそだし、自分自身の人生にも信頼をおいているからこそだと思う。

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