誰かの説明書:けじめという名の逃避①

 極度な人間不信だった時、自分は全てをちゃんとしなきゃいけないと思っていた。それは、仕事をしている時も、家にいるときも、大切な人といるときも。恥ずかしい思いをしたくないという気持ちから、準備万端でなければ、ドタキャンしようとする。また、自分が上手く結果を出せなかった時、自分を認められなくて、その場にいる事が耐えられなくて、全てを無にしようとしてしまう。急な方向転換をすることで、身を守ろうとするのだ。それを、僕は「けじめ」のような物だと、その場をしのぐために、口にする事が多いけれど、それは、ただの回避行動なのだ。この繰り返しを行っていると、本当の自分を見る事がいつまでたっても、出来ない。それが行き過ぎた結果、一人でいるときも、気が張っているような状態になってしまう事もある。
 「真面目だね」といわれるから、自分のことをまるで、真面目な人間だと思う事がある。それは、行動を見て評価しているのだと思うけれど、自分の内側には、そんなに良い言葉は生成されていない。「恥をかきたくなくて、適当に出来ないから~」という前文が、自分の行動の前についているのだ。だから、無意識に努力アピールをしているのだと思う。本質ではなく、周辺の「○○っぽさ」で自分を装飾している。だから、あくまでもフリなので、問題が解決する事はない。それは、自分を変えようとして行っている行動では無くて、別の人間をただ演じている俳優なようなモノなのだ。ちゃんと騙すための技術であり、巧妙な嘘・空間で、自分の身を守る為だけの技術だ。
 作品を完成させることが出来ないのも、自分を見る事を回避しているだけなのだ。飽きているというのもあるにはあるけれど、どちらかと言えば、自分を断定したくない。断定してしまうと、そこで自分が生成されてしまう。その場にいなければいけなくなる。それは、怖くて仕方がない。だから、途中までしかやらない。あくまでも、自分ではなく、他人が作ったもののようにふるまう。確実に僕が作っているのだけれど、その当時の僕が作った作品ですという。だから、積み重ねという事が中々出来ない。過去というものが、縦に積み重なっているような感覚では無くて、すぐ隣にある。自分じゃない者を作り続けているから、重なっていかないのだ。あくまでも、違うフォルダーを毎回作っている。毎回、違う名前を付けている。データの保存はしているから、あるにはある、ただ、覚えているではなく、ぼくはそれを知っているという感覚に近い。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?