20240212_「本気になったことないんだね」

 ふと、昔バイト先でそのような事を以前言われたことを思い出した。
 本気になるというのは、どういうことなのだろう。手を抜いているわけでは無いが、あきらかにこれこそは本気に違いないと断言できるような状況になった事が無い。だけど、器用ではない事は間違いない。みんなでよーいドンでスタートすれば、どの分野でも遅れるのは間違いないし。今でこそ色々人並みには出来るようになっているが。
 なぜ出来るようになったかと言われたら、他者がそれをやっていた事をわすれるくらいの期間、1人で続けてたからというだけの事なのだと思う。
 だいたい、24年間同じことを考えている。「なんで出来ないのか?」書いて思ったが、「どうやったら出来るようになるのか?」という問いではないのが面白いなと思った。まるで、出来るようになりたくないようなそぶりではないか。けど、そう考えた方が自分はやり続けるらしい。また、短期間の集中ではない、いつも長期だ。だらだらずっと同じことをやっている。なんで、それを飽きずに、やれているのかが分からない。ただ、やり続けていると、「こうかもな」という推測のようなものがたまに現れる。それを期待しているのかもしれない。他には、他者からの評価というのも大きいのだと思う。なんとなく提出したものが、想像以上に評価されるという体験。逆に、本気というものから僕と距離を離れさせたに違いないが。
 少し話がそれるが、幼少期の評価というのはかなり将来の自分を制限してしまうものだと個人的に思っている。なんとなく、こーすれば褒めるのだろうという式が作られてしまうと、そこから逸脱したことをするのは困難だと思われる。自分から、不幸になろうとする奴なんていないし。だからここで言いたいのは、早熟を過大評価するのはよした方が良いと思うという事。その年齢に適したやるべき事が他にもあるんじゃないかなと、24歳の今言っておく。おじさんになってからは言いたくないので。
 で、本気について話を戻す。この議題について考えるときに、思いつくのは脱力という概念だ。
 介護をするようになってから、体の使い方について考える事が多い。あきらかに力ではどうにかならない状態でも、構造を使うと持ち上げれたりする。また、やられてみると分かるが、理にかなっている持ち方だと、不思議と痛みがない。流れに沿って、自分の身体も動かされているだけという感じで、摩擦が起きないような感覚になる。
 あほみたいに筋トレをしていた時は、大きな体で重い物を持ち上げることだけ考えていた。それは楽しかったけれど、筋トレを辞めてからの方が、自分の身体を上手く使えるようになっている気がする。ない筋力をどのようにしてカバーするか。そのゲームの方が、良い遊びだと今は感じる。
 ものすごく力を入れればいいというわけでは無い事は、芸術に携われば誰もが感じるだろう。それは、指を早く動かすにはどうするべきなのか、平行な線を引くためにはどうすればいいのか他、身体操作が技術に直結するからだ。頭のイメージと、体の動きを一致させる。技術に関してだけいうと、それだけなのだと思う。その感覚が鋭い人間は、媒体が変わろうが、とくにやる事は変わらないのだと思う。少なくとも、自分はそう感じる。
 脱力について補足すると、完全に脱力するわけでは無い。自分も、ピアノをやっていて、どのような意味なのだろうとずっと考えてきたけど、少なくとも力0というわけでは無い。形を保つ程度の力はいれている。けど、外から見ると軽く弾いているように見えるという感じ。なので、中で起こっている事と、外から見える状態に差異があると思われる。自分が作品を描いている時、技術には集中しているのだと思う。だけど、頭はリラックスしているような感じ。なにか別の事を同時にしているような感覚。ここは、また今度言語化しよう。
 本気とは、まさしく脱力した状態なのだと自分は思っている。瞬間的な火事場の馬鹿力ではなく、じわじわとにじむようなもの。だから、よっぽど感情と行動が一致している人間以外では、そもそも、とらえきれないものではないのだろうか。
 だから、今まで自分も本気だったのだと思う。手ごたえはないのだろうけど。おそらく、ほとんどの人はそこで行き詰って、やめてしまうのだと思う。だけど、たまたま自分は、ただの負けず嫌いだったからそのまま続けてやれていたのだと思う。
 逆に、この本気というものの見えなさを理解して継続さえしていれば、おのずと本気な状態になっているのではないだろうか。
 という仮結果がでたところで、今日は終わりにしよう。

 書きながら、いろいろアイディアが思い付いたので、またまとめよう。
 今日はこの辺で。本日もお疲れ様でした。
 

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