見出し画像

瞑想から祈りへ

降りていく人生

毎夜、眠る前に、私は分厚い聖書をめくる。2022年の年末から、少しづつ読んでいるのだ。地道にマイペースで読んでいって、もうすぐ読み終わりそうだ。全く意外な展開だと我ながら思いつつ。

きっかけは、1年前。私の書く文章に何度も登場する、大切なヨガの師が亡くなったことだ。その知らせを聞く前の数ヶ月は、何故だか不安定な精神状態が続いた。職場の人間関係もしんどかったし、体調も悪く、そのせいで先行きも見えず、アーサナを行いながら、理由もなく泣いてしまうことがあった。振り返ると確かに、あの時は少々やばかったのかもしれない。

2018年にインドから帰国してから、相変わらず人生の奮闘は続いている。でこぼこの山道を術なく転がる小石のようだ。落ち着きたいのに一向にその気配なく、日々揺れ動く心に翻弄され、何とか体勢を建て直そうと頑張るがすぐに煽られて、また頼りなく転がされていく。いつか見晴らしのよい平地に辿り着くのだろうか?ほっと一息ついて、安心して、安らかにくつろげる日は来るのだろうか?と、天を仰いでため息をつく。

なんとか事態を改善させようと、去年はスピリチュアルカウンセラーめいた人のところに行ったり、友人と共にパワースポットと呼ばれる場所にも足を運んだ。神社に参拝したり、厄除けの護摩供養をしてみたり。風水にも頼ってみたり。少しでもご利益を得ようと節操なく必死になっていた。

そんなある日。

駅でバスを待っていると、隣の停留所に、とある大きなお寺に向かうバスがやって来た。咄嗟に何も考えず、私はふらりとそのバスに乗り込んだ。そのお寺には何度か参拝したことがあり、それほど有名ではないものの、密かに霊験あらたかな場所と聞かされていた。

お寺に着いて、境内に向かう階段を登っている途中、ふっと心の中でささやく声がしたのだ。
「祈るならお寺じゃなく、教会に行きなさい。そこがあなたにとって一番近い場所じゃない?」
立ち止まって、「なるほど」と、妙にストンと腑に落ちた。

そうなのだった、私はクリスチャンの家庭で育ったのである。確かにお寺よりもずっと、教会は私にとって最も身近な祈りの場だった。そうだ!今度の日曜日久々に教会に行くのもいいかもしれない。早速、近所の教会を調べてどこへ行くか目星をつけた。

その二日後、ヨガの師であるジョシーが亡くなったと連絡を受けた。土曜日の午後のことだった。

私は、普段は朝食前に済ますヨガを、その日だけはなぜか午後にしようと思い立った、普段より体にエネルギーが通る感じがして、しばらくできていなかったアーサナもスムーズにできて感動した。
「ほら、できるじゃん」とかつてジョシーのヨガレッスンで言われたセリフを思い出していた。

ひと通り終えて、お茶を飲んでいる時に、メールが来た。
「ジョシーが亡くなりました。死因は心臓発作、亡くなったのは日本時間の午後2時ごろです。」

なるほど。ジョシーがきっと一緒にヨガをしに来たんだなあ。と思いながら、頭の中が真っ白になり、現実感が湧かない。
「死んだんだ。」
何度も繰り返し、その現実を心に刻みつける。その傍で知人に連絡する。
そう、いつかはこの日が来ることは分かっていたんだ。それが、今日来たんだ。
結局、5年前にインドで別れてからそれっきりになっちゃった。

ジョシーのことはブログなどで沢山書いているので、ここではあまり繰り返さない。彼は私のヨガの先生でもあり、精神的な支えだった。大切な存在だった。
同時に、彼の存在は私にとっていつも大きな「なぜ?」だった。
「何故、彼はあんなに苦しまなくてはいけなかったんだろう?」

当時自分自身も病気を抱えていたので、それは自分自身への「なぜ?」とも重なっていた。「なぜ、私は病気になったのか?」
私と彼の「なぜ?」を問いかけながら、私はインドを旅していたようなものだ。

ジョシーと最後に会ったのは、2018年の春、カンニャクマリの修道院だった。
そのころもだいぶ彼の具合は良くなかったが、それでも車椅子なしで歩けたし、会話もできた。私は次の冬くらいにはインドに戻ってくるつもりでいたが、ジョシーはしきりに「これで終わりだよ。」と呟いていた。
「これから神様は怒って地球を出ていっちゃうんだよ。だから、世の中は大変なことが起こるんだ。でも、安心してそれはもっと良くなるために必要なことだから。それまでヨガの知恵を守って暮らしてください。」

私が出発する日、彼はベッドに寝たまま見送りには来なかった。部屋まで声をかけに行き「見送ってくれないんですか?」
と尋ねると「辛くなるからね。」とポツリと呟いた。それが最後の記憶だ。

帰国してしばらくは、時々電話をして話すことができた。ところが段々と、普段彼を介護している弟が電話を繋いでくれなくなった。
「今彼は寝ているんだ。」
ごくたまに、クリスマスや誕生日に話せることがあっても、回線も悪く、ジョシーの言葉は途切れ途切れであやふやになっていった。
最後の1,2年はほとんど連絡が取れなかった。ジョシーの誕生日にビデオメッセージを送ると、ヴォイスメッセージが返ってきたがほとんど「うー、あー」みたいな呻き声のような状態だった。多分、ほとんど寝たきりになっていたのだろう。

私は悲しくなり、いつの間にかジョシーの記憶を封印するようになった。
それが彼が亡くなることによって、その閉じた箱がパチンと開いて、解き放たれたように感じた。不自由な体に閉じ込められた魂が、死とともに楔を解かれたのと同じように。



トマスの弟子たち

師が亡くなった翌日の日曜日、私は彼を弔うような気持ちで、近所の教会へ足を運んだ。ちょうどクリスマス前の降誕節の始まり。教会堂にはクリスマスツリーが飾られていた。子供の頃通っていた、小さな教会の雰囲気を思い出した。そのノスタルジックな感覚と共に、自分の前を通り過ぎていった、多くの物事が思い出され、胸をギュッと掴まれる。

礼拝は馴染みの手順で進み、特別に感動させる何かがあったわけではない。でも、逆にあまりに自分にとって自然で、普通で、家に帰ったような安心感があった。ずっと昔から知っていたこの空気。善良で暖かな笑顔の人たち。そう、この善良な空気感こそ、10代の自分にはたまらなく居心地が悪いものだった。

幼い頃は親に連れられて毎週教会に通っていた。しかし、中学生になった頃からキリスト教的な価値観がひどく窮屈に感じるようになった。親や教会で出会う人々は、私も当然クリスチャンとなり奉仕的な人生を歩むことを期待していた。そうした周りの要望に応えてすくすく素直に育っていれば、今ごろこんな迷路に迷うこともなかったかもしれない。

しかし子供は親の期待通りには育たない。私が夢中になったのは、音楽や文学、そしてアートだった。時代は80年代、日本の北の果ての田舎にも、テレビや雑誌、ラジオを通して新しい時代の息吹が吹き込んできた。太宰治や三島由紀夫が好きで、当時のブリティッシュロックを聴き込んで、貸しレコード店に通い詰めていた。美術部に所属して、毎日飽きずに絵を描いていた。

神様なんて、世界に、そして自分の人生に溢れる不条理や不平等に、何も応えてくれない気がしたのだ。そんな神様を信じる気にはなれず、自分に信仰がないのは、それに相応しくないからだと思っていた。

そして自分の生きたいように人生を生きるのだ、という欲望が私の背中を強く押し、教会からは足が遠のき、そのまま40年近くが経過していた。しかし神様から離れた私の内側には、魂の渇きや飢えがそのまま残っていたのだろう。それを満たすために、やがてインド哲学や仏教、瞑想などに興味を持ち、今に至るというわけだ。様々な宗教や哲学に興味を持っても、キリスト教だけは、自分の中で何故か迂回すべき存在としてあり続けた。そんな訳で、教会に行こうと自ら思い立ち、それを実行したこと自体がもう奇跡なのだ。

そのタイミングがジョシーの死とリンクしたことも、決して偶然には思えなかった。彼もまたケーララのキリスト教徒の家庭に育ちながら、ヨガに惹かれ、その道を進んでいった人だからだ。ジョシーの一家は何代も続くケーララのカトリック教徒だった。多分彼がガチなヒンドゥー教徒でなく自分と同じように、キリスト教の伝統の中で育って、ヨガを探求してきたというバックグラウンドに私は親近感を持っていたのだと思う。

インドに時も彼はよく私を教会へ連れていってくれた。彼の妹は修道女だったし、親戚には神父もいた。彼らと連れ立って、ケーララに残る古い教会や聖地に足を運んだこともある。しかし当時の私の興味は完全にヒンドゥー文化に向かっていたので、あまり印象には残らなかった。

ケーララは東洋の中で、キリスト教が最も早くに伝播された特別な地である。それは紀元1世紀のこと。キリストの12弟子の1人だったトマスが、伝道のためにケーララの海岸に辿り着いた。実際これには諸説あるようだが、少なくともローマ・カトリックが宣教するはるか前から、南インドにキリスト教広がり、聖書も伝わっていた事は確実とされる。ケーララのキリスト教徒たちは、自分たちをトマスの直系の信徒だと誇りを持っている。ジョシーの家庭も、そうした古くからのクリスチャンの家系であったようだ。

ジョシーの祖父は地域の地主のような存在で、ちょうど家が巡礼路の途中にあったため、しばしばヒンドゥー教徒の行者や巡礼者を家に招いて、霊性についての議論をしていたと言う。彼が初めてヨガを知ったのは、こうした行者の1人からだったらしい。

当時はヨガはまだまだヒンドゥー教行者の霊的な修行法といった、秘義的要素が濃厚で、ヨガを学びたいと言うと、当然家族からは反対された。キリスト教徒にとって、ヨガは「悪魔のもの」だったからだ。その話を聞いた時は「ずいぶん狭量ね」くらいにしか思っていなかったが、今では彼の行為がかなり異端的だったろう事は、容易に想像できる。(何しろ現代のアメリカ人ですらそう言っているのだから)

そうした堅苦しさから、彼は30代でヨーロッパからカナダへ渡り、それから日本と、海外でヨガの先生を続けていた。それが突然の交通事故に遭って、右半身と右の前頭葉に重度のダメージを負った。インドに戻り、自活が困難になってからは、修道女だった妹の縁でずっと修道院で療養していた。

ジョシーが亡くなった後、しばらく押入れにしまいっぱなしになっていた、インドで記したノートを開いて、読み返すことが多くなった。改めて気がついたのは、彼の言葉の多くが、実は聖書的な世界観に基づいていた、と言うことだ。年を経て、心身が不自由になって行くにつれ、その傾向は強まっていたように感じた。

「神様のすることをあなたは決して分からないんだよ。だから何でも神様が置いったものをエンジョイしなさい。何でもだよ、一見悪いものでもエンジョイするんだよ。」

「私は今、神様に全てをお任せするという段階を学んでいるんだ、だから悩みも心配もない、それは本当に素晴らしい事だよ。」

「あなたはよく自分について愚痴をこぼすけれど、それはね、神様に文句を言ってるのと同じなんだよ。神様があなたを作ったんだ、全知全能の神様が作ったんだから、その傑作を讃えるべきだろう?」

「あなたも、私も神様の子供なんだよ。」

「あなたは神様のことがわかる人だから、こう言う話をしているんだ。」

ケーララにいる時も、彼はよく私を教会に連れて行ってくれた。でも、ヨガを学びたかった私は教会よりもヒンドゥー寺院がいいんだけどな、と内心思っていた。ところがインドの中でもケーララ州は宗教的には保守的で、異教徒は内部に入れてもらえない。ヒンドゥー教徒が同伴していれば大丈夫なことも多いが、生憎ジョシーはキリスト教徒なのだった。

ジョシーの葬儀の様子は、海外の知人が多かったという理由からか、家族がライブストリームで配信する手筈を整えてくれた。当日彼を慕う日本のヨガ仲間と集って、一緒にその放送を見ていた。「インド人のヨガ教師」として彼を見ていた、古い生徒たちは、修道院でのキリスト教式の葬儀に意外な印象を待ったようだ。かつて彼がいつも首にかけていたルドラクシャはいつの間にか、ロザリオに取って変わっていた。埋葬も火葬でなく土葬である。

古い生徒たちは、ジョシーのアーサナの美しさと、身体能力の高さを絶賛した。でも、私が出会ったジョシーはもう事故の後だったから、私は体の不自由な彼しか知らない。

「キリストは偉大なヨギだ。ヴェーダの教えとキリストの教えが出会うケーララは世界でも特別な場所だよ。」

最晩年、とうとう車椅子での生活となった彼は、修道院で何を思って暮らしていたんだろう。キリスト教とヴェーダ、この異なる世界観を彼はどうやって統合していたのだろう。今となってはもう、知ることができないのが悔やまれた。そしてそれが、心の中で新しい問いかけになって膨らんで行った。そしてずっと迂回してきたことをやってみようと決心した。少なくとも1年は毎晩聖書を読み、できるだけ日曜日は教会へ足を運んでみよう。

新しい「なぜ?」の旅が続いていく。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?