ゆびきりげんまん

天気の良い休日の午後、スーパーから帰ってくると、不機嫌そうな夫が玄関から出てきた。聞くと、3番目のミコが勝手に家を出ていったので、探しに行くと言う。

不機嫌なのではなかった。心配と、自分が居ながら外に出ていったのに気が付かなかった罪悪感とで、顔が曇っているらしい。

ミコが脱走騒ぎを起こしたのは、今回が初めてではない。ミコは怖いもの知らずなところがあって、暇になったり、不満があると、勝手に外に出ようとする。もちろん鍵など厳重にかけるが、どこからか高い台をとってきて、よじ登ってチェーンをあけたり、思いもよらない方法を用いるので、いたちごっこである。

4歳の子が1人でふらふら出歩けば、何があるかわからない。でも、こう何度も同じことを繰り返すと、親も「またか」という気持ちになってきてしまい、危機感が薄れてきているのを自分でも感じる。

「一人で外に出かけちゃいけないよ」。何度も言い聞かせているし、その度に「うん、わかった」と殊勝な顔をするが、全然わかっていないし、多分、またやる。

ご近所に顔見知りも出来て、道も覚えて、本人は何も怖いことがないのだろうけれど、どこにどんな人が潜んでいるか、わからないのだ。

4歳の子を連れ去ることなど、どれほどたやすい事か。あるいは、運転する車からみた小さな子が、視界に入らないことなど、ざらにある。

夫がミコを探しに出てすぐ、何食わぬ顔でミコが戻ってきた。反対方向へ行った夫に電話で知らせ、ミコの目を見て、何度も繰り返した話をする。

「ミコ、一人で外に行っちゃいけないって言ったよね?悪い人がいて、一人っきりのミコを連れて行っちゃうかもしれないんだよ?車にはねられて、死んじゃうかもしれないんだよ?外に行きたいときは、必ずお父さんかお母さんと行こうね?」

「うん…わかった…」

何度も繰り返している、不毛な会話。

「じゃあ、ゆびきりげんまん」。
「ゆびきりげんまん、ウソついたらー…ウソついたらー…」
私はその次の言葉を探したが、咄嗟にうまいことを思いつかなかった。作り話で脅かすことはしたくないし、「はりせんぼん」も特に効果がないだろう。

「おかあさん、ゆび、はなして」
ミコがしびれをきらして言った。

「うん、ウソついたらー。ウソついたら、おうちがなくなっちゃう!」

自分の口からでた、あまりにも説得力のない言葉に脱力した。

ミコも特に気を止めた様子もなく、
「おかあさん、だいしゅき」
と、これさえ言えば万事解決、という感じでするっと腕の中に入ってきた。

「おうちがなくなっちゃう」

私の口から出た言葉は、私の心の中でだけ、何度も繰り返された。

「もしもミコに何かがあったら、とても悲しい」ということが伝えたかった。それをどう表現しようかと思って、咄嗟に出てきた言葉がそれだった。

そして、こどもに何か取り返しのつかない事が起こったら、本当にこの家は無くなるような気がする。

こどもの喪失。事故や病気や、いろんな理由でこの世に起こる残酷な出来事で、でも、それでも残された家族は生活を続けていくのだろうけれど。

ただ、ギリギリの状態で立っているうちの場合は、そんな出来事がもし起こってしまったら、どういう形で崩れていくのかはわからないが、最終的に家そのものがなくなる気がする。

この家に、そんな耐性は備わっていない。悲しみや怒りを乗り越えて、家族が支え合って、日常を取り戻す力など、きっとないだろう。

聖書に『砂の上の家』という言葉があったような。私は砂の上に家を建ててしまった愚か者で、いつ水に流されてもおかしくない。家が流されても、命だけあれば、また生き直すことができるかもしれないけれど、とにかく全てやり直しになるくらいの、そういう危険性を孕んだ家に、私は住んでいる。

でも、いつ何が起こるかわからないのは、世の中の全ての人に言えることで、それを嘆いたところで何にもならないんだよな、と我に返る。

やっぱり、玄関の天井に近い部分に鍵をつけようかな。ミコという、目の前の元気いっぱいの危険人物に対して、無策で過ごしていたら、それこそ何かあったときに悔やみきれない。

そして、あっという間に、ミコも大きくなって、友達と連れ立って外へ遊びに行くようになる。もっと大きくなったら、電車やバスで遠出もする。

親が見ていられるのは、ほんの数年で、あとはどうか無事に何事もなく生きられますようにと、祈るくらいしかない。

人生そのものが砂の上にあるのかもしれないし、だからこそ、先のことばかり考えずに、今日一日を大切にしなさいと、いろんな人が言うのだろう。

「おうちがなくなっちゃう」

自分の口から出ただけに、なかなかその響きは私の中から消えなかった。春の穏やかな日差しの中、私はミコと手をつないで家に入った。ミコはすっかりご機嫌で、私が何を買ってきたのかと買い物袋を気にしている。

おうち、なくなっちゃうかもね。でもいいんだよ。やるだけやって、なくなっちゃったら、それはもう、仕方ないんだよ。





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