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講演「ロックに生きるわいわい人生~差別もありゃあ、愛もあるさ~」

昨日はNPO法人月と風との清田さんのお誘いで、吹田東高校で講演させていただきました。タイトルは「ロックに生きるわいわい人生~差別もありゃあ、愛もあるさ~」です。

生徒の皆さんも先生方も真剣に耳を傾けていただきました。本当にありがとうございました。

次の目標は、真剣さをひとつ超えて、一線を越えて、“聞かないと”という構えをくずして、何か言いたくてうずうずするようなそういうムードを生み出すことです。

以下、内容です。

ロックに生きるわいわい人生
~差別もありゃあ、愛もあるさ~

 今日は吹田東高校にお招きいただき、ありがとうございます。河合翔と言います。ふだんは立命館大学生存学研究センターというところで研究員をしながら、週に1回ほど清田さんが代表を務める月と風とのチャリティーショップ・ふくるで車いす店員をやっています。

 ぼくはこれまでの人生を振り返って、たくさんやんちゃなことをしたり、たくさんの挑戦をしてきました。今日はぼくが動くことで世界が変わっていったんだというお話をさせていただきます。

 ぼくは今から37年前茨木市で産まれました。産まれたころから脳性麻痺という障害がありました。体を動かすときに筋肉の緊張が強くなり、歩けないので電動車いすに乗っています。また話すときも初対面の人だとちょっと聞き取りにくいかもしれません。聞き取りにくいときは遠慮なく「もういっかい言ってもらっていいですか?」って聞いてね。
 
 ぼくが生まれた時、親はびっくりしたようです。それはそうですよね。障害をもって生まれてきたんだから、どう育てればいいのか、ちゃんと育つのか、親も不安なわけです。一方、赤ちゃんのぼくも呼吸ができず、生死をさまよいながらただ生きたいと必死にもがいていたんだと思います。赤ちゃんはみんな生きるために必死にもがくんだとおもいますが、障害があるとそのもがきが人一倍強い。そうしたぼくの熱に押されて親も必死でがんばってくれました。

ただ生きたい!と必死にもがいたのは赤ちゃんのときぐらいだったかもしれません。今は当たり前のように食べたいものを食べれて、呼吸していることを忘れるぐらい呼吸しています。おかげさまで、時々「生まれてきた意味ってなんだろう?」とか考えちゃうぐらいです。

 ぼくが障害があるとわかってから親は歩けるようにリハビリに必死だったようです。病院の先生からも「将来この子は歩けます!」なんて言われたみたいです。いま考えてみると「ほんまかいな」と思ってしまいますが、当時は「歩けること」がみんなの希望だったんでしょうね。

 でも、子どものころのぼくはリハビリなんか嫌いで、友達と遊んでいるほうが好きでした。4歳から地域の幼稚園に通い、幼稚園から帰っても、友達と公園で遊んでました。幼いころ、友達たちは僕を自然に受け入れてました。「翔クンの車イス、ボクが押すッ!」と車いす争奪戦が子どもたちの間で始まり、なかなか激しかったんです………….ボク、モテモテだったんですね~

 子どもたちは自然にぼくを受け入れてくれてたんやと思います。どうして障害のあるぼくを幼い子どもたちは自然に受け入れてくれたのか。それは遊びの中で体と体がぶつかり、けんかするときはけんかし合い、鼻水垂らして泣くときは互いに泣き、ちょっとしたことで笑い合う時間を過ごしたからやと今では思います。つまり、めっちゃ対等な関係で、言いたい放題言い合い、それを大人があまり咎めず、見守ってくれてたからやと今思えば感じます。
 子どもって体当たりでコミュニケーションをとるじゃないですか。障害があるからって特別遠慮しないし、むしろ“みんなとは違う”ってこと自体に純粋に興味を示します。道を歩いてたら、小さい子が「ママ、なんであのひと歩けないの?」と口にしているのをよく聞くんですが、ふと浮かんできた疑問から目をそらさず、その疑問に真っ正面から挑んでみるってやっぱ子どもはすごいなぁーと思います。
 障害のあるぼくを子どもたちが自然に受け入れたのはほかにも理由があります。幼稚園で遊ぶ中で子どもたちは結果を求めないというか、答えを無理に出そうとしないというか、結果を怖れない、頭の中だけで先々のことを考えない、ということです。逆に、ぼくと体でぶつかりながら、けんかしながら、その時々で工夫し合いながらお互いのことをわかり合っていったのです。
 小学校に入って高学年ぐらいになると、体をまず動かすより、先にアタマで考えるほうが多くなったように思います。低学年のころは仲良かった友達も、高学年になると急に白々しくなったり、ほかの子と遊ぶようになったりします。今まで喜んで車いすを押していた友達が急に「車いすを押すこと」がいいことをやっているかのように振る舞い始め、ぼくも変に気を遣い、誰かに何かをお願いすることに罪悪感を持ち始めます。クラスの中でなぜか自分が特別な存在だと感じてしまい、友達との会話もぎくしゃくし始めます。友達全員ではないですが、誰かと遊ぶ時でもなんか“仲間に入れてもらっている感覚”を覚えてしまいます。そうなると、なんだか申し訳なさを感じるようになり、ぼくも障害のない子どもみたいに「全部自分でやらなきゃ!」と焦り始めます。
 大人になり始めると、みんな人と比較し始めるんでしょうか?あの子はあれができるのに私はできない、できないあの子に私がやってあげる、やってあげてる私ってエライ!みたいな感覚をみなさんも持ったことはないですか?
 この感覚に共通するのは「できるのはいいこと」という価値観です。この価値観をみんながもつと、できないと見なされる子は周りから孤立してしまいます。でも、“できる”っていったいなんでしょうね…………….「できる/できない」の区別って時代とともに変化しないんでしょうか?みなさんもぜひ考えてみてください。
 
 高学年、中学生になっても、ぼくはまだ子どもの心が残っていたからか、アタマより体で動くことが多かったです。パラグライダーで空を飛んだり、バスケ部に入って、朝早くからみんなと筋トレ500回したり・・・。相変わらずのやんちゃ坊主でした。
 中学生になると、電動車いすに乗り出し、友達とボーリングやカラオケで遊ぶために一人で遠出をすることが多くなりました。遠出をするとなると、バスや電車などの公共交通機関を利用することが多くなります。その当時は今みたいにバリアフリーという考え方もまだそこまで普及しておらず、バスの乗り口もスロープがなく、段差だらけでした。ぼくがバス停にいても、バスの運転手さんはぼくのほうをチラッと見て通り過ぎていきました。無視したのではありません。ぼくのことを乗客だとは思ってないのです。「車いすの男の子が一人でバスに乗る?まさかねー乗らないよねー」という感じだったと思います。もしくは「お母さんかだれか待っているんかなー」と思っていたのかもしれません。それぐらい、車いすの男の子が1人でバスに乗るなんてレアなことだったんです。
 けれども、ぼく自身は友達とカラオケやボーリングに行きたいのであきらめません。親もがんばってくれ、バス会社と交渉してスロープがつくようになりました。しかし、その後もバスに乗ろうとしたら、「親御さんや付き添いの人はいないの?」と聞かれることはよくありました。
 運転手さんはどうしてそんなことを言ったのでしょうか?車いすの人に慣れていなかった、というのが大きいですね。この車いすどうやって押すんだろう、事故したりしないのだろうか、この子とちゃんとコミュニケーションできるんやろうか、何かあったら責任とれへんし・・・。
 今はだいぶ変わってきていますが、昔は障害のある人が出かけようとしたり、一人暮らししようとしたり、恋愛したり、結婚や出産をしようとしたら、周りから「うちら責任がとれないからやめておけ」と散々言われてきたんですね。1996年まで障害のある人が妊娠したら中絶できるようにするための優生保護法という法律があったぐらいです。この優生保護法にしても、障害のある人の声を聴かず、周りが勝手に「この人は責任をとれないだろう」と決めつけ、代わりに私が責任をとってやるから、障害のあるあなたは私たちの言うことを聞いていればいい、という障害者に対する社会の差別的な姿勢が根底にあったのです。と同時に、障害を持って生まれてきたら不幸だ、かわいそう、障害のある命は劣っているという優生思想もありました。最近になって、優生保護法によって中絶手術を受けさせられた障害のあるひとたちが「優生保護法は人権無視の不当な法律である」として国に賠償を求める裁判を起こし、勝訴しています。
 それにしても、責任っていったい何なんでしょうね。この中に、自分一人で何でもかんでも責任が取れるって人います?勉強一つ取ったって、自分一人でやろうとするとこんがらがる。先生や友達に聞いたり教えてもらったりしないといけない。将来働くにしても、一人で長時間10個ぐらいの仕事をこなさないといけないとしたらぶっ倒れる。子育ても、パートナーや保育士、ヘルパー、友人、いろんな人が関わってはじめてできます。1人だけでやろうとすると心身ともに疲れますよね。
 責任をとれなければ何もできないというのなら、何もチャレンジできません。人生失敗がつきものです。失敗して、そこから学んで、次に生かす。その繰り返しで人は成長していくのです。
 先ほど、「できるのはいいこと」という価値観が世の中にはある、という話をしました。でも、この価値観は本当に正しいのでしょうか?ぼくと同じ脳性麻痺をもち、小児科医をやりながら東京大学でも教えている熊谷晋一郎さんという方がいます。熊谷さんは「自立とは依存できる人や依存できるモノを多く持つことだ」と述べています。えっ? 自立の反対が依存じゃないの?自立ってなにものにも依存せずに独り立ちすることじゃないの?と思った人もいるかもしれません。
 でも、ここでちょっと思い浮かべてみてください。一人で勉強して、行き詰まって、頭がこんがらがっているとき、一人でなんとか解決しようとしていますよね。ぼくは誰にも頼らず、一人でできるんだと。でも、なかなかうまくいかない。この場合、一人でやろうとしていますが、実はその人は自分の頭だけに依存しきっているのです。でも、先生や問題の解き方をよく知っている友達に相談してみたり、わかりやすい本を読むことで問題がクリアできるときもよくありますよね。
 ある一人の人や一つのものに頼り切ることは実に危険です。その人やものが自分と合わなかったら他になすすべがなく、自分自身を追い詰めることにもなりかねません。一方、様々な人たちとかかわりを持っていろんな見方・考え方に出会っていれば、自分が困難に陥ったときに必ず力になります。今の時代、自己責任が強く求められ、“頭がいいこと”がもてはやされていますが、人一人が考えることなんてたかが知れてます。人って弱い生き物ですが、いろんな人とつながり合って、本を読んだりして世界を広げてください。
 「できるのはいいこと」という価値観は障害のある人の選択肢を逆に狭めてしまうことがあります。ぼくが高校生のころ、大学受験の年に行ったある大学のオープンキャンパスで入試担当の人から言われたひと言が今でも忘れられません。それは「入学は認めます。でも、入学した後の支援は大学としてはしません。全てご自身でやってください」というひと言です。ぼくが求めていたのは特別なことではなく、ほかの学生がしているように授業を受けれるような支援だったんですが、その支援がないとなると安心して学習できる環境がなかなか整いません。その結果、十分学習ができなくてもすべて自分が責任を負わないといけず、誰にも相談できないという状況が生まれるのです。「入学は認めます。でも、入学した後の支援は大学としてはしません。全てご自身でやってください」というひと言は、何でもできる健常者の人だけを学生だとみなし、ハンディのあるひとは学生とは見なさないという態度がうかがえます。
 そんなことが目に見えていたので、その大学は受けませんでした。ほかにも、オープンキャンパスでいろんな大学を回ったのですが、とある大学の中を歩いていた時に担当者の方から「うちの大学は様々な支援があります。気軽に声をかけてくださいね」と声をかけていただき、ここに行きたいと思うようになりました。そうした積極的な姿勢は障害のある学生に進学意欲をかき立てます。夢を与えます。自分もここの学生の一員になりたいと思えるからです。夢はどんな困難にも立ち向かえる勇気を与えるのです。
 今日の話の最初に「ぼくが動くことで世界が変わっていった」と述べましたが、どう変わっていったかというと、障害があること自体が支援やバリアフリーという価値を生み、多くの人を巻き込んで支え合いのネットワークを生んだ、ということです。
 この支え合いのネットワークがあるからこそ、今までいろいろやんちゃもできたわけです。
 高2の夏休み、1ヶ月間オーストラリアでホームステイをしていたのですが、今でも忘れられないのがひと夏の恋でした。もうたぶん時効なんで打ち明けてもいいと思うのですが、現地の高校に通い、現地の高校生と仲良くなります。ある日、食堂でごはんを食べていたら「Why don't we go out for lunch?一緒にランチせーへん?」と声をかけてくれる女の子がいました。彼女は学校の中でもモテモテで人気者だと聞いていたので最初「な、なんで俺?」ともうびっくりです。そっけない感じで「OK」と答えたのですが、内心はもうウハウハです。しかも、そのあと仲良くなって日曜日に町のショッピングモールを案内してもらったりしました。「これ、いけるんじゃね?将来は国際結婚かあ」と早くも結婚のことまで考えて「どないしよっ」と勝手に盛り上がっていました。手をつないで、別れ際にハグをして、オーストラリアを経つ日もハグをして、「手紙を交換しよーね」と約束したんだけど、その後手紙を送っても返事は来ず。ひと夏の恋は終わりました。あれは果たして恋だったのかな?幻だったのかな? 
 ひとつ言えるのはすぐに惚れたら負けですね。なんの話や!

 ・・・とここで話は変わりますが、大学に入ったころはこんな感じでした。

大学の入学式でこの髪型!!ちょっと調子乗って、ブイブイな時期でしたーみなさんはマネしないように!!

大学に入って、北海道の友達ができました。下の写真は北海道で釣りをしているところです。釣りして、食べて、飲んで、将来の夢を語り合っていました。

大学卒業後は大学のときの友達とインドへボランティアに行きました。「障害のあるひとがボランティア?」と驚かれるかもしれません。でも、現地の子どもたちと遊んで楽しかったです。
 下の写真はガンジス河で現地の人々がお風呂に入っているところです。

ガンジス河は聖なる河ですが、日本人の体質には合わない、入ったらどうなるかわからんでーと脅されたので足だけ浸かろうと恐る恐る入ったのですが、なぜかぼくだけずっこけて全身浸かってしまいました。ガンジスの神様が引きずりこんだんですかねー。

こんなふうに、ぼくは今までたくさんの仲間と人生を面白おかしく歩んできました。もちろん、思い悩むことも、道に迷うことも、失敗することもあります。
 いま現在、ぼくは吹田市で一人暮らしをしています。毎日、朝・昼・晩とヘルパーさんに調理や入浴、洗濯、掃除を手伝ってもらいながら、わりかし楽しく暮らしています。料理の献立は毎日冷蔵庫の残り物を見て、ぼくが考えます。月々のヘルパーさんのシフトはぼくがヘルパーを派遣している事業所に表を送って決まります。ヘルパーさんは僕の手足となって、ぼくのできないことをぼくの意向に沿ってサポートしてくれています。ドジすることもありますが、毎日充実した日々です。
 大学を出た後、研究をしたくて大学院に行きました。そこで、「障害は社会的に構築されたものである」という社会モデルの考え方や哲学に出会いました。社会モデルの考え方は「できないのは障害のある自分の責任だ。自分が障害を克服しなくちゃいけない」という考え方からぼくを解放してくれました。もっと声を上げていいんだと。障害をもっていなくても、たとえば女性であることで理不尽なことやなにかストレスを感じれば、その問題の根源には社会的に作られた仕組みがあるのかもしれません。
 そして現在、今日一緒に来ていただいた清田さんが代表をつとめる月と風とが運営するチャリティーショップ・ふくるで週に1~2回ほど車いす店員として勤務しています。ふくるは尼崎の阪急園田駅や塚口駅の近くにあり、地域の皆様から寄付していただいた服を販売しております。車いす店員が働きやすいように多くのボランティアのみなさんや月と風とのスタッフのみなさんにサポートしていたただいています。衣服の「ふく」と福祉の「ふく」と幸せの「ふく」がくるくる回って、たくさんの人たちに巡ってくる、これが「ふくる」です。
 ふくるで働いて1年が過ぎましたが、仲良くなったお客さんも多く、服を見ながら日ごろあった出来事や趣味のことを語り合います。お客さんの中には2時間以上店で過ごされる方もいて、第2、第3の居場所になっている感じもします。お客さん同士で服をすすめ合い、どこか懐かしい、昔地域であった井戸端会議のような、町の人とひととが触れ合える場所になってるなぁと最近は感じています。とても楽しいです。
 

 もうこの講演も終わりが近づいてきました。これからのぼくは前にもまして、ロックに生き、やんちゃになってやろうと思います。ロックに生きるとは人と比較しない、愛に突き動かされるように生きることです。研究をするにしても、全国を飛び回るにしても、多くの人を巻き込んで、まだ社会に届いていないたくさんの声を聴いて、社会に届けていきたいです。

ご清聴ありがとうございました!

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