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会社を継ぐ気はサラサラ無かった。。。けど

私が今、社長をしている会社
60年前に祖父母が起こした会社だ。
私が3歳の頃、祖父は亡くなった。
祖父母には、娘が3人、
私より年上の従兄妹が2人

私(♂)が産まれたときは
『後継ぎが産まれた!!』と祖父の喜びは大層大きなものだったと祖母や母から何度も聞いた
(【男が後継ぎ】という時代の話ということでご理解下さい)

私が小学生の時分はまだ週休二日では無く、
土曜日も学校が半日、
企業も稼働していた時代。
弟と学校から帰る頃
母が一旦会社から帰り、
我々兄弟を会社に連れていき、
会社の食堂で昼を食べさせて、
そのまま我々兄弟は母の仕事が終わるまで
食堂で宿題や漫画を読んだりして過ごした。
夏休み中も、そんな感じだったように思う。

社員の方々にも、
【将来の社長】と言われ、
その事に特に疑問も持たなかった。
会社を、割と身近に感じていた。

それが中学生になる頃
全く会社に寄り付かなくなった。
そのまま高校生になり、大学受験の際も
わざと遠い北海道の大学を受けた。
(落ちて関西の大学に行きました)

就職の際も、地元に帰る選択肢はまるでなく
親に大して相談もせず就職を決めた。

両親と仲違いしていた訳ではない。
ただ、
【地元に戻って地元の企業に入り、
数年後両親の会社に入る】
それをやってしまうと、一生親の庇護から抜け出せないようで、それが嫌だった。
自分の人生は自分の力で稼いで生きていく。

青臭い限りだが、そう思っていた。

考えを変えたのは、社会人4年目
当時出向でアメリカの子会社に赴任していた、
以前【お金は武器】と題した記事で触れた
祖母の急逝で一時帰国した時。

飛行機新幹線在来線と乗り継いで
なんとか間に合った、通夜・葬式の時だった。



驚いた。

葬祭ホールの一番大きな会場に、
400名ほどだろうか、
それはそれは大勢の方々にご列席頂いていた。
三方の壁は個人の方や企業様からの供花で埋まっていた。

恥ずかしながら、
このとき初めて
25歳にして初めて、

祖父が起こし、
祖父が亡くなってから20年以上
社長を親戚や婿養子の父に任せ、
祖母が黒子として一生懸命守ってきた会社、

その会社が、
どれだけ多くの方々に支えられて
どれだけ多くの方々に関わって頂いて
今日まで来たかを知った。

自分の、
【自分の人生は自分の力で稼いで生きていく】
それがどれだけ小さい考えだったかを目の当たりにした。

そして、考え直した。
【継ぐ】事が、
親の庇護から抜け出せないと考えていたのは
自分が何者でもないから、
その時点で、私がその時居た会社で、何も成していないからだと。

庇護云々などは、

これから自分が何を感じ、考え、実行し、言い訳せず自分の足で立ってどう生きていくか、
それが問題なのだ
、と。

式後、一段落して、アメリカに戻る時、
両親に

『5年待ってくれ。5年後戻ってくるから』

そう告げると、
今まで一度も「継げ」と言った事の無い二人が、少し安堵したようだった。

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