辛さにはその人なりの尺度がある
百人の人がいたら、百通りの性格や生き方があるでしょう。
百人の人がいたら、きっと百の数の考え方、ものの捉え方があるのでしょう。
百人の人がいたら、おそらく百の悩みや不安があるのでしょう。
それらは百から千、万、億と数が増えても同じなような気がします。
何もかもが全くの同じ人間は存在しないはずだと思うのです。
容姿、思考、悩みや不安。
それらに対して人はそれぞれの尺度を持っていると思います。
そして。
その尺度が人の数だけあるのなら、それを誰かが誰かに当てはめようとするのは無理やり過ぎると思うのです。
例えば風邪をひいた時。
喉の痛みがひどい人もいれば、咳が止まらなくて苦しい人、鼻水が止まらない人、熱が下がらず頭痛がきつい人。
風邪という病気一つをとっても、様々な症状のパターンがあります。
喉が痛いと訴える人に下熱薬を出しても意味は無いでしょう。
咳が止まらなくて眠れず困っている人に鼻水を止める薬を処方しても効果は期待できないでしょう。
風邪をひいたことがない人には、風邪をひいた時の辛さはきっと理解できないでしょう。
それは風邪だけではありません。
なんらかの原因で精神的な病を抱えてしまった人。
自らの身をもって経験しないことにはその辛さはわからないものだと思うのです。
例として「うつ病」を挙げます。
前提として、この後の文章を書く上で僕が経験していないことは書けないですし、仮に書いても説得力が生まれないからと思うからです。
うつ病の症状も千差万別です。
罹ってしまった人の数の場合の症状があります。
何もかもやる気が出なくて何もかもが億劫になったり。
人と会うのが苦になったり。
外に出るのが辛くなったり。
いくら夜が更けても眠れなかったり、反対に眠り過ぎてしまったり。
食欲が無くなったり、食欲が抑えられなくなったり。
以前まで好きで興味を持っていたことができなくなったり、気力がなくなったり。
同じうつ病という病名でも、症状には数々のパターンがあります。
恐らく書き出すとキリがありません。
ここにも尺度が存在すると思っています。
「今、自分は何もかも辛くて堪らないけど、同じ病気のあの人はもっと苦しんでいる。だから自分はこの辛さを我慢しなければいけない」
このように考えてしまうこともあります。
自分の中からその考えが生まれるならまだしも、何も知らない第三者から言われる場合も。
「世の中、あなたより苦しんでいる人が沢山いる。それに比べたらあなたの辛さはそれほどじゃない」
というそういった言葉。
言いたいことは分かるつもりです。
確かにその通りなのかもしれません。
例えば一日の食事すらままならない人がこの世に居るのに、自分は食事を取れる。しかもそれを嘔吐してしまう。
一見その行為は無駄だと見えるのかもしれません。
ですが、当の本人からしたら自己誘発性嘔吐もひとつの症状なのです。
その嘔吐をすること自体に原因があるはずです。
きっと、誰も好き好んで沢山食べたものを無理やり吐こうとはしないでしょう。
人には自分の中に、自分なりの尺度が存在するはずだと思うのです。
勿論、病状には実際重い軽いはあるのでしょう。
ですが本人からしたら例え症状が軽かろうが重かろうが、いずれにせよ重大な問題なのです。
周りから何とも比べては欲しくないのです。
それはどのような症状でも。
今この時間は平日のお昼だから、同い年の友達はきっと今頃、一生懸命働いているのだろう。
精神疾患を抱えてから何度も何度も、幾度となく比較をしてしまいその考えに苦しめられました。
"自分はなんて情け無いやつなんだ"
"こんな自分なんて生きているだけで迷惑をかけてしまう無駄な存在だ"
"それならいっそのことこの世から消えてしまった方がマシなんじゃないか"
尺度があるが故に、自分で自分の首を絞めてしまう羽目になるだけでした。
ですが今となって思えば、こればかりはもうどうしようもないことなのです。
望んで疾患を抱えた訳では当然ありませんが、そうなってしまった以上、そうだとしてこの先を生きていくしかないのです。
寧ろこの先の生き方を考えた方が得策なのだろうと思います。
人からすれば然程でも無い辛いこと。
それでも本人にとってはとてつもなく辛いこと。
それは本人にしかわからないこと。
きっとそういう場合は沢山あるだろうと思います。
幸せも、喜びも、苦しさも辛さも。
それは人の数だけ、その人なりの尺度が存在するのです。
そしてそれは第三者が介入するべきではない、押し付けてはならないものだと思っています。
ですから、誰かの話しを聞く際には慎重に丁寧に、割れ物を扱うかのごとくその人のものの尺度を尊重したいと思っています。
ひろき
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