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括ったあの日から芽生えた「覚悟」

(注意)今回は自身の経験を基に書きますので、少々生々しい表現も含みます。フラッシュバックや、そういった生き死にの文章が苦手な方はこの記事を読まれないことを推奨致します。


僕は本来なら、もうこの世にいなかったかもしれません。

生きることに絶望を覚え、その時は生きていることに光明など一寸も無く、震えた手でルーズリーフに遺書のような書き置きを殴り書きで認め、いざ実行に移そうとしました。

色々方法を考えましたが、僕はその時玄関のドアで首を括る方法に決めました。

以前他の記事でも書いたこともあるのですが、今は亡き母方の祖母に生前貰った手拭いで輪っかを作ってドアノブに引っ掛けて、その輪に首を通しました。

ゆっくりと体の力を抜いていくと、体重で下方向に力が入り、自然と首が締まっていきます。
その時、この世に未練はないと思っていたのに、不思議と涙が流れたのです。
ちっとも悲しくなんてなかったのに。

一時的に意識を失ったものの、意識を失ったと同時に運良くドアノブから手拭いが外れ、そのタイミングで母が仕事から帰宅したため、その後頭はしばらくはぼんやりとしていたものの一命を取りとめました。

その時母は大粒の涙を流していました。
その時の僕はなんと馬鹿野郎だったことか。

そしてその時に、これから先も自身の精神疾患との付き合いは続くだろうと思い直しました。

いつこれが完治するかは自分でも見当がつきません。

たとえそうではあっても。

この"精神疾患"っという、厄介なものを抱えながら生きれるところまで生きるしかない、と感じています。

死ねないのであれば生きるしかあるまいと、今度は自身の首ではなく"生きてやる"という腹を括りました。

大袈裟かもしれませんが死の淵を数回覗きに行って、その度にそこでの深淵を見たのだから、この先は生きねばなりません。
そのための理由も自分なりに見つかりました。

自分の経験がもし悩める誰かの力になるのであれば、これからも惜しみなく発信していこうと思います。

社会になかなか適合できず、上手くは生きれていないものの、首を括ったあの時きっと上手く死ねなくてよかったのでしょう。

何度か落としかけたこの命。
その度にギリギリで拾い続けたこの命。 

だから。

燃やせ燃やせ。
火を灯し続けろ。
命の灯火をまだまだ絶やすな。
それは今じゃない、それはきっとまだしばらく先だ。

そうやって自身に言い聞かせて、この先もまだ生きるという腹を括り、この命の行先の覚悟を決めました。

それでは、また。
ひろき

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