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書評「テクノロジーを活用する私たちが見えていないこと」(清水諭編『現代スポーツ評論41 特集:テクノロジーとスポーツの変容』2019,創文企画)

はじめに

 今回は『現代スポーツ評論』の「テクノロジーとスポーツの変容」特集号を紹介する。以前「スポーツと人種問題の現在」特集を取り上げているので、よろしければそちらもご覧ください。

 いまやVARやデータ分析などがスポーツ観戦者にも一般的になり、VRや5Gによって観戦体験が向上するといった話も耳にするようになった。テクノロジーはスポーツにとって良いことづくめのように感じられる。
 一方で歴史的に見れば、テクノロジーの発展は別な課題を産むものでもあり、私たちはその両面を見ていく必要がある。そのような背景から本号のテーマはスポーツの「発展」ではなく「変容」なのだろう。
 また本日(1/30)「スポーツアナリティクスジャパン2021」が「人間回帰」をテーマに開催されたが、各セッションを聞いてスポーツと人間の関係性についてより考えたい人におすすめしたい。

テクノロジー活用の強迫観念

 坂本はテクノロジーと人間の関係性における問題点として「テクノロジーの利用を無条件に善とする、一種の道徳的強迫観念」を挙げている。これは「テクノロジーで出来ることは全てやるべきだ」という考え方で、たとえば「出生前診断」に対する「出生前に先天的障害の有無を検査できるのであればしないのはおかしい」などの意見が挙げられる。
 出生前診断は「命の選別」として倫理的な問題になっている。坂本は「テクノロジーでできることをやらないのは怠惰」の価値観で活用を進めるのは楽観的で、むしろ怠惰であることを許容できない不寛容さの現れだと主張している。できるからといって本当にすべきかどうかを、私たちは都度総合的に判断しなければならない。
 こうした価値観はスポーツにも向けられており、たとえばサッカーのVARでは「ビデオで確認できるにもかかわらず、判定に活用しないのはおかしい」といった意見が見られる。しかしここには経済的な実現性や、ノンストップであることの面白さが抜け落ちているように思う。テクノロジーを活用する上で、こうした強迫観念があることに私たちは気づく必要があるのではないか。

VARが有効だと認識しているのはなぜか

 VARの話題が続くが、清水との対談の中で久保は「判定を主審1人に任せられない状態が、判定テクノロジーを有効な技術にしている」と述べている。つまり判定テクノロジー(VAR)は有効であると私たちが認識しているのは、社会的に要請されているからである。
 この点は以前「#さかろぐ」でも取り上げたが、近年ではサッカーの試合が経済的便益などに様々に繋がっているため、判定への厳密性が強く求められるようになってきた。また影響が拡大するにつれ、主審1人では勝敗に責任を負いきれなくなっている。こうした背景からVARがサッカーの試合に有効だと私たちは認識している。
 テクノロジー活用にあたっては私たちが有効だと認識していることが必要で、その背景には社会的な要請がある。言い換えると、ある社会的な状態がテクノロジーに意味を与えている。にもかかわらずテクノロジーだけを切り出して議論してしまってはいないだろうか。

おわりに

 上記以外にも本書では、VRによるエンターテインメントとしてのスポーツの可能性や、eスポーツの将来像などが論じられている。「テクノロジーでスポーツをどうしていくか」を考えたい方にもおすすめできる。
 テクノロジーは「見えないものを見えるようにする」のが一つの特徴だが、倫理的な問題など、活用する際に見えていないものが多いのではないだろうか。それらはテクノロジーで可視化することは難しいが、代わりに本書で複数の考えに触れることで気づくことができるかもしれない。


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