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幸田露伴・明治の東京で「をさな心」

をさな心

 初日の光は胸瓦の高い家にも藁葺きの破れ家にも同じように射し込んで、新年は万事に不足の無い所へも、何かと不足勝ちの所へも一様に来た。
 お縫(ぬい)いは一人っ子の勘太郎と云う一夜明けて新年になった今朝、やっと六ツになった子と共に二十六の年の元旦を心淋しく迎えた。
 去年はこうでは無かった。去年はこうでは無かった。そりゃあどうせ世間の立派な人等と一緒にゃあならないが、私も勘太郎も木綿物にしろ一枚づつ新しいのを引っ張らさせて貰って、良人(うちのひと)と一緒に三人で機嫌好くお雑煮を祝ったのに、今年はマア何という情けないお正月だろう。頼みに思う良人は去年呼び出されて麻布へ行って仕舞って、それからとうとう戦地(あっち)へ渡って、今頃は何処でどんな辛い切ない思いをしていることか。音信(たより)も無いから様子も知れず、稼ぎ人に出られた後は私一人、どうにもこうにも仕様の有ろう筈の無い痩せ所帯、市外(まちはずれ)ではあり、ぼろけた家でも自分の所有(もの)であればこそ、こうして遣って行かれるようなものの、やっと飢(かつ)えて死なないというだけのこと、私が内職に足袋(たび)の下縫いをする位のか細い働きでは、お正月らしいお正月は出来るものの、同じ植木師(うえきや)でも金さん銀さん鉄さんのように家に居る人の家では、不景気でも何でも家中(うちじゅう)揃って、松の内は松の内らしく笑って暮らせるが、吾家(うち)なんぞは、アア情けない!第一松飾りだって良人が居て呉れれば、今年のような見すぼらしいのを為(す)る筈は無いが、男手は無いし、同業(なかま)の人を頼むのも、皆それぞれに忙しい中を頼むのも気の毒と思って、自分で植溜(うえだめ)の中から松枝(えだ)を取って来て打ち付けて見たが、女のことだもの釘一ツ打てないで、アッチへ曲りコッチへ曲って思うようにならないのを、ようやくどうにかコジつけて入口へくっ付けたものの、今年は飾りさえアンナ意気地の無い見すぼらしい状態(さま)で年を迎えたかと思うと、何だか妙に心細い悲しい気がする。と今更のようにお縫いは、この目出度い日に当たって夫の留守の侘しさを感じながら、ブリキ落としの古びた安火鉢で消し炭を吹き熾(おこ)しつつ、雑煮に入れる餅を焼くのであった。
 賢いようでも勘太郎はマダ子供だ。昨日の夜、隣の婆様に留守を頼んで内職の勘定を取りに行った帰り道に、ナンボ苦しいと云っても正月は正月らしい遊びをさせて遣らなくては可哀想だと、小さな絵凧を一つ買って来て、「明日は之を揚げてお遊び」と云って渡して呉れたそれを喜んで、早く雑煮を食べてしまって凧を持って外へ出て遊びたい思いで胸が一杯で余念が無い。凧を手に持ったり、畳へ置いたり、立て掛けたり、また手に持って立ち歩いたりして、挙句は目まぐるしく座ったり立ったりしている。
「母(かあ)や、お雑煮はまだかい。遅いナア母や。」
「せわしないネエ。おとなしくお待ちよ。お餅がもうちょっとだけ焼ければ直ぐに拵えてあげる。お祝いだから母(かあ)もお前と一緒に揃って食べるんだよ、いつもの御飯(おまんま)の時のようにお前ばかり先に食べたがっちゃあいけないと云うのに。」
「早く仕ておくれよ!凧を揚げたいんだから。」
また、凧を手にして狭い室の内をアチコチ歩く。
「そんなに持って歩いていると、揚げもしないうちにコワして仕舞うよ。」
「コワしゃしないよ、大切(だいじ)なんだから」
 そうは云ったが、流石におとなしく手から放して壁へ立て掛けて、楽しそうにその絵をジッと見ていた。絵は将軍服を着た騎馬の軍人が、左手には日章旗を持って右手には剣を揮っている図だった。
「母(かあ)や、強い大将だネエ」
「そうだよ、大変に強い偉い大将なんだよ」
「じゃア、お父(とっ)ちゃんの大将かネエ」
 子供心にも親が征戦(いくさ)に出ているのは知っているので、偉い大将と聞くと直ぐに贔屓心から我が父の指揮官でもあるように思ったのであろう。母は無心のこの言葉に少なからず心を動かされた。休む間もなく夫を思っている情(こころ)は、また新たに胸の中で騒いだ。
「アア、そうかも知れないよ、好(い)い大将だネエ」
「ン、好い大将だナア、坊は好きだア、早く揚げて見たいナ、お雑煮はまだかい。」
「アア、せっかちだネエ。サアサアもう出来ますよ。」
 別の台所の竈(かまど)の上で菜と芋の汁はもう煮えているのだから、お縫いはその鍋をコチラへ持って来て、今焼いた餅の幾つかをその中へ打ち込んだ。これでもう雑煮は直ぐ出来るので、雑煮と云えば読んで字の通りに焼かない餅を最初から鍋の中で煮る遠国の風とは違うのも、村とは云え、自ずから家続きになっているために、何時となく薫染(うつ)っている都会風なのであろう。
勘太郎は今や自分の前に暖かそうな好ましい雑煮が来るだろうと、目も離さずに母の手元を見ていた。ところが最初に盛られた一椀が載った膳は、その他にカズノコや田作りなどの幾皿かを載せ合わされて、普段の自分が知らない思いの外の処に置かれたので、ビックリして不思議そうな顔をしながら、母のする事を黙って見ていた。箸まで添えてあるから方向(むき)は分かるが、それでもその膳の置かれた処には誰もいないから、勘太郎が不思議そうに見たのも無理は無い。その膳は普段父の使う膳であった。そこは普段父が座る処であった。その椀は普段父が使うものであった。子供ながら、母(かあ)は何だか変わったことをすると思った。
 何でもない、お縫いは影膳を据えたのであった。手が足りて暇がある身であれば毎日でも仕たい事なのだが、一寸の間も惜しんで手の筋が攣(つ)り指先が痛むまで足袋を縫って、それで漸く親子が生活(くら)して行く中であるから、思うことも出来ずに過ごして来たのだが、今日は何時もとは違った年の始めのこと、何時もは親子夫婦揃って祝って来た雑煮であるものを、と思うので先ずその人がそこに居るように膳を置いたのであった。
 いくら貧乏を仕ていても、苦しくても、こうやって親子夫婦が顔を揃えて、おめでとう、おめでとう、と祝い合って箸を取ったならば、どんなに嬉しいだろうかと、人の居ない膳の淋しげに見えるのを目にすると、お縫いはもう何だか急に胸が塞がるような気がして、正月早々に味気ない感じを起こした。しかしお縫いは妻としての感情ばかりに身を奪(と)られてはいなかった。忽ち母としての我に返って、ニッコリした顔を作って、
「サア、おめでとうと云って箸をお取りよ。母(かあ)もおめでとうと云ってたべようネ、サア、いいかエ、おまえも一緒におめでとうと御云いよ、サア、おめでとう。」
「おめでとう。」
「サア、サア、お上がり、沢山(たんと)お上がり。」
 子供は正直だ、合点が行かないと思った事を聞かないでは居ない。
「母や、そのお膳は誰が食べるんだい。」
と勘太郎は一ト口食べてから母を見て訊ねた。
「誰だろうネエ。坊は知らないかエ。」
 淋しい笑いを頬に見せながら、憂さも辛さもこの子より他に慰めるものも無い、此の今の話し相手に、わざと問い掛けて気を紛らせた。
「やっぱり、お父(とっ)ちゃんかい。エ、母(かあ)や。」
「アア、よく知っていたネエ、お父(とっ)ちゃんだよ。本当にお前は利口だネエ。」
 今度は全く真から笑顔になって、丸々と肥えた我が子が、口をモグつかせている罪のない顔を見ながら、我が心を子供が何となく感じたのを、この上もなく満足した。
勘太郎は悦びに輝く目を丸くして、慌てて箸を下に置いて仕舞って、
「じゃあ、お父(とっ)ちゃんは今帰って来るのかい。嬉しいナア坊は。」
と、解りが良いようでも子供は子供である。
 音信(たより)さえ滅多に無い位なのに何で帰って来よう!遠い遠い満州と云う恐ろしい寒い国で、此の可愛い勘太郎を見たいであろう、帰って来たいであろうが、お国の為、天子様の為と、ジッと辛抱して、弾丸(たま)だ、鉄砲だと、風の日も雪の夜も働いているのだもの、夢で無くちゃあ中々帰ってなど来られるものでは無い!
「そうじゃあないよ。お父(とっ)さんは征戦(いくさ)に行っているのだもの、どうして帰れるものかネ。」
 勘太郎は失望して元気の抜けた顔になって、
「いけないナア、何時帰ってくるんだよう。ネエ母(かあ)や。坊はアノネエお父(とっ)ちゃんが帰ったら、源ちゃんが持っているような光るサーベルをネ、買って貰おうと思ってるんだ。お父(とっ)ちゃんが帰って来たら買って貰ってやるって、母(かあ)やが過日(こないだ)の晩にそう云ったじゃ無いか。」
「アア、そりゃあもう帰って来さえしたらきっと買って貰ってあげるよ。」
「いくつ寝ると坊のお父(とっ)ちゃんは帰って来るんだい。いけないナア、お父(とっ)ちゃんはお正月より遅いナア!」
 もう三ツ寝るとお正月が来る、二ツ寝るとお正月が来ると云って楽しませて来たソレを覚えていて、いくつ寝るとお父ちゃんは帰って来ると訊かれてハタと詰まり、何時まで留守を守ればよいのか、それが分からなくて我さえ悩むものを、親も一緒にベソをかきたいような気がする位だ。
「今にお帰りだろうからおとなしく待っておいでよ。おとなしくしていればきっと帰っておいでだよ。」「きっとかい。」
「きっとだよ。」
「じゃあ坊はおとなしく待っているよ。坊はお父(とっ)ちゃんと一緒にお雑煮を食べらア。」
 今直ぐ帰ってでも来るように思い違いをして、また箸を抛り出して急におとなしくした、そのチョコナンと端座(かしこま)った無邪気ないじらしい姿を見てお縫いは堪らなくなった。
「坊はマア好(い)いから母(かあ)やと一緒に食べるんだよ。お雑煮がぬるくなって仕舞わあネ、サッサとお仕よ。待ってたって今お父(とっ)ちゃんは帰って来ないよ。」
「だって、お膳が出ていらア。」
「これはネ、お父(とっ)ちゃんに供(あ)げたお膳だけれどネ、お父(とっ)ちゃんが今帰って来て食べるんじゃ無いよ。」
「じゃあ坊のお父(とっ)ちゃんは死んだのかい。」
「エッ、何をお云いだ、マア飛んでも無い。」
 母は愕然として色を失って、
「縁起でも無い。お父(とっ)ちゃんは強いからピンピンして働いているよ。」
と言葉を足して祝い直した。
「だって、仏(のの)さんに供(あ)げるのと同(おんな)じだナア。」
「そっ、そんなことを云うもんじゃあ無い。いまいましい子だネエ、お父(とっ)ちゃんは達者で働いているってば・・・。ソラお父(とっ)ちゃんは強い大将と一緒だもの、戦(いくさ)は勝って勝って勝ち通しで、大変な勢いで働いているんだよ。」
 年齢(とし)が年齢なので影膳の意味は分からなくても、男の子は男の子だ、戦に勝ったと聞いたので勇み立って、
「ン、お父(とっ)ちゃんは本当に働いているかナア。」
と嬉しそうな顔をして母の顔を仰いだ。パッチリした清(すず)しい眼には張りを含んで、可愛らしい小さい薄い眉を出来るだけ上げた。
「働いてるとも、働いてるとも!ロシアの奴なんぞ大変に負かして汗をかいて真っ赤な顔して働いてるよ。」
 いよいよ嬉しそうな顔をして聞いていた勘太郎は忽ち起ち上って、ツカツカと父の膳のところへ走り寄るやいなや、覚束なくもそれを持ち上げて母に突き付けて、
「母(かあ)やお父(とっ)ちゃんの所へ持ってって遣りなよ。お父(とっ)ちゃんは働くと何時でもお腹が減るんだよ。サア早く麻布へ行こうよ。」
と、労働者の子は子だけに賢いところはあっても、戦を自分の見た兵営の近くにでもあるかのように思ったのか、雑煮の膳を持って独りで急(せ)いている。母は言葉も無く優しく膳を抑えて、我が子の顔をジッと見つめたが、思えば思えば子供心のいじらしさがヒシヒシと肝にこたえて来て、見る見る潮がさすように眼の中に涙を湛え、夫を思い子を思う清い心から初泣きに泣いた。
(明治三十八年一月)

注釈
◦麻布:陸軍
◦ブリキ落としの火鉢:内側にブリキ板を貼った木製火鉢
◦消し炭:燃え残しの炭

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