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雫のゼラニウム。【8作目】「短編」

「あなたは何故、弊社を志望したんですか?」
耳にたこができるほど、聞かれた質問。
今の僕は正直、通いやすくて規模が大きくて、
安心して金が稼げれば、
職場はなんでもいいと思っている。
だからといってアルバイトじゃあるまいし、
それをバカ正直に言えるわけがない。
だから自分なりに考えて、
それっぽい理由で返してきた。
でも、多分それが滲み出てしまってたんだろう。
気付けばもう10月。
今も頭の中であの質問が鳴り響いている。


僕は今まで、何も成し遂げて来なかった。
部活やサークルに打ち込んで、
協調性を身につけたわけじゃない。
大学に入るために頑張って努力をして、
忍耐力を養ってきたわけでもない。
運動も勉強も中の下。
飛び抜けた発想も広い視野もない。
おまけに無愛想で鈍臭い。
いい所を強いて上げるなら
ステルス性能が高いくらい。
僕を一言で表すんなら「ポンコツ」だ。

そんなポンコツな僕でも
唯一好きだったことがある。
絵を描くことだ。
その中でも特に模写が好きだった。
有名な絵画の模写をしたりしていた。
ただそこにあるものをその通りに描く。
自分の考えなんかいらない。
実在している確かなものを、
自分の力で複製している感覚が好きだった。
でも、もうそんなことをしていられる時間がない。
好きなことを仕事に出来る人は、
ほんの一握りしかいない。
僕はそこに入れるような人間じゃない。
就職して働いて帰ってきて寝てまた働いて。
たまに絵を描いて息抜きしてまた働いて。
僕の平凡な人生は、
そうしていくうちに終わっていくんだろう。
むしろ今の状態では就職も決まるか怪しい。
憂鬱の先に憂鬱が待っている。


今日は久しぶりに美術館に来た。
就活ばっかだと疲れちゃうし、たまにはいいだろう。
自分で考えて絵を描けない僕は、
よく写真撮影が許されている美術館に来ていた。
帰ってからその写真を見て、思い出しながら描く。
僕の唯一の趣味だ。
目を引く作品を探しに徘徊していると、
その視線は1枚の絵画に惹き付けられた。

真っ黒な闇の中に椅子とドアがあり、
その先から光が漏れている。
展示されている絵の中で
一番簡単にも見える絵なのに、
僕は目が離せなくなった。
急いでカメラを構えて
人の往来が収まるのを待ち、
シャッターを切る。
僕はこの絵を描かなければならない。
何故か強くそう思った。
僕が描いたところで、
これは僕の作品にはならない。
でも、これを描くことで何かが変わる気がした。


帰り道、急な秋雨に襲われた。
カメラは壊れていない。とりあえず安心だ。
人気のないアーケード。雨音だけが響く夜。
いつにも増して、心が穏やかだった。
早く描きたい。でも止む気配もない。
もどかしさを抱えながら佇んでいると、
一輪の花が目に止まった。
この花は1回模写をしたから知っている。
確か、ゼラニウムだ。
オレンジ色のゼラニウムが
雨を受けながら立っていた。

気付いたら雨はもう止んでいた。
どれだけ時間が経っていたんだろう。
雫を乗せたゼラニウムを撮って僕は家に走った。
これから何を描くか、僕に何が描けるのか。
今はもう、それしか頭になかった。

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