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森光七彩の生い立ち③アオギリのうた

さて、小学生ゾーンに入りましょうか。

勉強が大好きな子供だったので、学校に行くのを楽しんでいました。

日記も長文で書いていたので、先生は読むの大変だっただろうな…

小学校には被爆樹木がたくさんあって、1年生の時には学校にあったエノキについて学びました。

2年生のときに学んだのが、アオギリの木です。

担任の先生の友人の皆さんが、「アオギリのねがい」という平和の思いを込めて作られた絵本を作成していて、

この本を読み聞かせてもらったことを覚えています。

小学校の原爆慰霊碑の近くに、アオギリ2世の木があり、慰霊碑の水換えのたびに眺めていました。

電車とバスに乗って、平和公園に行く授業があり、私は電車を選びました。のちの歌詞の冒頭が電車。

バスだったら、また違った歌詞になっていたかも。

原爆資料館にもいきました。いろんな絵が飾られていたのを覚えています。

被爆樹木のアオギリを見て、とても驚いたのを覚えています。えぐれた状態が残っていて、生々しい傷跡に子供ながらショックを受けました。

いろんなことを吸収した1日。

帰ってから、おばあちゃん家のリビングで、作文を書いていました。

見たこと感じたこと、それがアオギリのうたの歌詞になりました。

その紙を見た母が、これは歌にできそう!と提案してくれました。

ちょうどその頃は3学期で、2年間お世話になった担任の先生とはさよならになってしまう…お礼の気持ちで、曲を作ろうということになりました。

平和学習が印象に残っていたので、この歌詞を使いました。

すると、父が、知り合いから"広島の歌"の公募のチラシをもらいます。

「賞金で100万円だって。やってみれば?」

そこで、あの歌詞が浮上。応募しちゃおう!

でも締め切りはあと1週間…

大急ぎで曲作りをすることになってしまいました。

私が鼻歌でメロディを歌い、父がコード進行を確認していく…そんな作業。夜ご飯を食べた後くらいから、数時間で完成しました。

父が打ち込みをしたカラオケ音源に歌の録音をして、提出することになりました。

ちなみに、歌は、私と、妹も参加。当時年中さんでした。

先生のお礼で作った歌が、その後どんどん広がっていくことになるとは、このときは知る由もありませんでした。

明日に続きます✨



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