Y.Mitsuhashi

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最近の記事

『第64代横綱』 曙 関

今でこそ、最近はしょっちゅう大会が催されているけれど、それまで完全にプロレス不毛地帯と化していた山梨県に道をつけたのはワイだと自負している。 レスラーもスタッフもほぼ変わっていたけど、元・取締役広報部長としてではなく、完全に『お友達』として、ちょっとでもお役に立てたらなぁといろいろと企業さんとか紹介した。 で、20年ぶりくらいに興行を行うことになった時にプロモーションに横綱に地元のYBSやらコクサイやらに来てもらって、現場に顔を出したら完全に初対面なのに、ワイのあだ名「部長~

    • 中森明夫『推す力』

      最近、年齢の近い人たちが自身の人生の30,40年を総括をし ていることが多い クドカンはそういうの得意だからテレビドラマでモノ申してる感がある 曰く“こんな未来のために頑張って働いてきたわけじゃない” 中森先生も、終活っぽいかと思えるような「人生をかけたアイドル論」を上梓なさっている 表紙の推薦!篠山紀信さん、、、つい先日、鬼籍に 思うところがたくさんあるでしょうね 編集やってた時代にちょっとだけお仕事でかかわらせていただいた 流石のアイドル論 自分は昔から

      • 奉公の描く方向性

        ファン冥利に尽きる話のひとつ 馬場さんを『説得』したことがあった 昭和の時代、興行は、特に格闘技、中でも特にプロレスは街貼りポスターが広報アイテムとしては最重要視されていた 今では考えられないが、町のそっちこっち、人んちの壁とか電柱とか、勝手にどんどんポスターを貼って回るのだ もちろん、夜中! コンプライアンス前と後で、仕事って大きく変わったよね 営業部員が警察のご厄介になったり、地元のチンピラから「誰に断って俺っちのナワバリに、うんぬん」という電話が入ったりすることしょっ

        • 節分の風景_池上本門寺の夕暮れ

          節分は、プロレス界では池上本門寺に豆まきに行くと決まっている 他団体レスラーと一緒の写真におさまることすら難しい時世でも本門寺の節分追儺式だけは呉越同舟で面白いシーンが見られる ファンのころは大乱闘が起こるのでは!と心配していたが、檀家総代である東スポ太刀川社長の仲介に支えれらる年一スペシャルイベントだった 90年代初頭、超世代軍がスタートした時代 とにかく元子さんが信頼していたのが三沢さんだった 三沢さん社長時代以降の人間関係が表面に出すぎているから理解できないだろうけれ

        『第64代横綱』 曙 関

          日曜日の電話

          もう二十七回忌ですか でも、思い出すと鮮明なこともある 常々、元子さんは馬場さんはいつもチャンピオン、弱っているところを誰にも見せたくない、と言っていた だから何度かあったケガで入院というときもすべてのお見舞いはお断り、マスコミなんてもってのほかだった 1999年の入院時も誰もお見舞いはできなかった から 馬場さんの症状がそんなに悪いなんてほとんどの人が把握できていなかった 復帰してきたら皆好き勝手やって怒られるんじゃないかとかそんな空気感だった あれは1月も中旬過ぎだ

          日曜日の電話

          ネクタイ2本

          2024年1月23日 やっぱ1.23っていうと区切りを感じる。 90年代の全日本プロレスの正月みたいな感じだった。 そのころの全日本プロレスには経理部以外には、営業部・渉外部・企画宣伝部の3セクションがあって、 営業部は10数名所属、渉外部1名、企画宣伝部1名+アルファという陣容で運営しており、渉外部と企画宣伝部は厳密に仕事の線引きはあったものの同時進行的なタスクが多かったので、ほぼ同セクションだった。 たぶん1992年、32年前。1月23日。 このころの1時間、1日、1週間

          ネクタイ2本

          ドカベン

          水島新司さん 打った瞬間のソックスからシューズにかけてとか、 投球の際の左手のグラブの位置とか、スゴイ好きで 小学生の頃、さんざん真似して野球漫画を描いていた ノート10冊分は作画オレで漫画を描いていた 確か友達にもその連載は読ませていたはずだ 漫画家になりたかったなぁ 水島漫画ならオレに任せろ的な感じで次週の展開予想して、絶対にありえない展開、水島新司ならこんな展開にはしないはずだってイキって見事に外したのは良き思い出で、いまでもイキる自分の戒めの一つになっている 漫画

          ドカベン

          語る追悼4

          好きなものを思い出す 馬場さんはマクドナルドのフィレオフィッシュにハマっていたというのは、結構有名な話になったが、オーダーは必ず「フィッシュバーガー3個とダイエットコーラ!」 しかし、今はあるのかも知れないが、当時日本には“ダイエットコーラ”は進出していなかった メニューにあるのは、“コカコーラ・ゼロ”だったのである 使いぱっしりになる事務所のコたちは、アメリカのコーク事情には詳しくはないわけで「コカコーラ・ゼロですね」「いいや、ダイエットコーラや!」というやりとりを困惑し

          語る追悼4

          語る追悼3 加筆

          “人間の最大のパワーの源泉はジェラシーである” これが僕が馬場さんから学んだ、ある意味帝王学というか王道だ ーーー チャンピオン・カーニバルの星取表を会場に貼り出すことについては、とことんNGだった 地方巡業などでは、テレビ放送がまだ行われていない会場が多い インターネットなんてまだ10年くらい先の話だ 来場者に、その日のリーグ戦の情勢をリアルタイムで共有してもらいたい、というスタッフの想いがあった 実際、僕らプロ研のやつらは毎日東スポを見ながら自作の星取表を更新してい

          語る追悼3 加筆

          語る追悼2

          テレビタレントとしての馬場さんには面白いシーンがたくさんあった あんなノリのシーンは普段でも割とあって有名なのは 時代劇ファンの馬場さんが、キャピトル東急で俳優の中谷一郎さんを見かけた時 「お、弥七!」と言ってしまった、とか プロレスファンのサザンの桑田さんが馬場さんへ挨拶に来ていただいた時 当然、馬場さんはサザンとか知らないから、後から〝今の人、誰?〟ってなって 隣にいた田中印刷のおじさんが「ボス、有名なバンドのゴダイゴです」とか じわじわとタケカワユキヒデさんと若い頃

          語る追悼2

          語る追悼

          ごく個人的な思い出をいくつか語る ●すごく怒られた話 普段の馬場さんの声はとにかくでかい テレビ番組や解説者の時の倍くらい大きい 実はプロレスラーで声の大きい人ってあまりいない 80%聞き取れればいいほうで、今だから言うが三沢光晴さんなどは35%程度しか聞き取れなかった、すいません色々と聞き逃しました 何度も聞き返すわけにもいかなくて、、、 一度、スナックで1時間くらい一生懸命語られたことがあったけど、この時は大げさではなく一言も聞こえなかった 天龍さんの電話もほとんど聞

          語る追悼

          プロレスで出会った友達のために

          1999・1・31 22年、ふた昔も前のことになってしまったのか 自分もいよいよ時間を大事にしたほうがいいと実感しているコロナな昨今 きちんと思い出をまとめておこうと思いつつ、ここまで来てしまった 色々な記者の方たちが語っているのを見ていてあの日のことを思い出すことしきり 東スポWEBで平塚雅人さんが命日に向けて連載してたり、市瀬英俊さんは本を出すらしい Facebook友達のためにも少し残しておきたいと思った 1999年の2月1日は月曜日だった 会社にはまだ営業部長の

          プロレスで出会った友達のために