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655からの行進

超低体重出生児として655gでこの世に生を受けた子供の出生時期の様子をまとめたエッセイです
少しでも近い境遇にある方の心の支えになればと思っております

phase0:幸福という積み木


リビングの床の上。赤・青・黄の長方形の積み木が不規則に並ぶ。
その板ガム程度のサイズの薄い直方体は、決して等間隔ではないものの、
1つ、2つと肩を並べることで、列となって広がっていく。

教育番組で見たドミノ倒しを、
生後3年を過ぎた長男が見よう見まねに再現し始めてから数分。

その後、別の部屋から大きな足音を立てて次男がやってきては、
その振動で一つの積み木が優しく倒れ、また隣の積み木も倒れ…。

何事もなかったように次男はまた別の部屋へご機嫌に走り、
倒れた積み木に長男は焦り、怒り、泣き始めた。
それはそれは悲しい顔で…。

これから書き綴ろうと思っている出来事は、
そんな、悲しい顔で泣きじゃくり、
数分もたたないうちに、ケロッと別のおもちゃで遊ぶ、
我が家の長男の出生に係る話。

それこそ、この長男が生まれる前の数週間、
生まれてからの数か月、
父親である私と妻が知りたかった話。

妊娠27週と出産予定日の3か月前に出産に至り、
わずか600gに満たない超低体重出生児として誕生した我が家の息子の話である。

今も、これから先も、
子供の出産にあたって、似たような境遇に向き合う人がきっといる中で、
私たち家族が経験した当時の出来事を赤裸々に書くことで、
わずかでも手助けになればと願っている。



phase1:崩れた積み木、広がって…


私と妻に第一子の誕生の知らせが来たのは、結婚生活6年目のこと。

お互いに結婚当初は仕事も忙しく、休日もズレることも多かったこともあり、本格的に子供のことを考えたのは入籍後4~5年経ってからだったと思う。

当時、妻が妊娠したという話を聞いた時、
心の底からの喜びとはこういうことを言うのかと感じるほどだったし、並行して父親になる責任みたいなものも時間と共に膨らんできた記憶がある。

その後、妊娠週ごとに胎児の成長具合がサポートされる
パパ向けのアプリを毎日見ることや、
妊婦健診時のエコーを妻から見せてもらう楽しみ。
子供が生まれたときの環境準備のための調べごとをしている時間などは
私にとって当然未体験な出来事の連続であり、素直に掛け替えの無い時間だった。

それはある意味、
幸福という名の積み木を一つずつ、一つずつ並べて
子供に出会う瞬間まで近づいていくようなそんな日々の過ごし方。


母親となる妻にとっても、
当然、妊娠初期の体調や出産の不安などはあっても
産休に入るまで仕事を継続しつつ、体を労り、
お腹の中の子の成長を実感してこれたと思う。

子供の性別が男の子であろうことがわかってからも性別が分かったことにより更に、愛着・愛情が増したような気もする。

そんな、1日1日が期待と高揚感と共に過ぎ去りながら言わば、ごく一般的に出産の日を迎えるイメージを二人で持っていた矢先、私たち夫婦とお腹の子を取り巻く状況は一変することとなる。

私の視点から見るとそれは、
妻の定期健診後のたった1つのメッセージをきっかけに始まった。

仕事中であった私のもとに届いた「今電話できる?」の一言はいつもの妻とのコミュニケーションの1つとは異なる違和感を感じたのを今でも強く覚えている。

健診時の妻の尿蛋白の数値が高いこと。
子供の成長具合も妊娠25週の平均と比較するとかなり小さいことがわかったこと。

そして、急遽翌日から妻は別の病院で検査入院をすること。
そんな話をしてくれた。

電話の先の妻はそれなりに冷静ではいたが、事は急なので、私は職場に一言入れて16時には帰路に立った。

帰りの電車で尿蛋白の数値が高いことがどういうことなのかをスマホで調べながらも、この時はまだ検査をして、
様子を見ていけば安定ラインに戻るイメージを勝手にしていたし、正直、楽観的な気持ちも多少持ちながら帰宅したと思う。

その日の夜、妻と入院の支度をしながら、「ずっと入院になるかもよ」なんて笑い話半分で話しながら、数日程度で退院する範囲の荷物を詰め込み、翌日を迎えた。

自分たちの力では防げない。
自分たちの思いだけでは元に戻せない。

丁寧に並べてきた積み木が倒され、
更に崩れ広がっていくような葛藤と向き合うことになることを想像もしないまま。



phase2:夫として、父として


私には、過去にも1つの連絡によって
自分の人生が大きく変化するような瞬間を体感したことがあった。

それは、学生時代に父を亡くした時の話である。
父は、私が小さいころからやりたいことをサポートしてくれたし、
一人暮らしをしていた私が実家に帰省した際も、
日曜日の夜であっても片道2時間かかる家までの道のりを車で送り届けてくれたりと、

子供の世話が好きな人だった。
そんな、父があたり前にいる生活が突然終焉を迎えた際も、急な母からの一報がきっかけだった。
当時の状況変化も私にとってはほんの一瞬の出来事。
その当時以降、自分の中でこれ程の有事は中々無いだろうとも思って生きていた。

この時期は神様に「人生のはしごを外された感」が当時の自分にはあった記憶がある。

自分の夢に向かって上昇しているときに限って、起きたこの出来事を受け入れるのは、中々大変だった。

そんな出来事から、10年以上経って、
今回の妻とお腹の子の検査入院を迎えた訳である。

妻の検査はエコーや血液検査など、
いつもの健診時にやるような内容と記憶しているが、
当然のことながら私自身は病院の待合スペースで待機。

約3時間くらい待って、やっと検査結果を聞くために呼び出しを受けた。

医師の方が教えてくれた検査結果は、
妻の尿蛋白の数字が昨日よりも更に高くなってしまっていること。
そして、検査結果としては「妊娠高血圧症候群」という症状で、
このまま尿蛋白と、血圧が上がれば上がるほど、
母体である妻の命のリスクが高まることを告げられた。

そして、
母体自体がこの症状であることで、子供の成長も鈍化しており、
妊娠週数の平均曲線を下回る大きさになりつつある状況でもあることも説明を受けた。

医師の方から聞いた内容は、
私も妻も想像していたよりかなり重い話で、
数値がこのまま上昇し、一定の基準を超えると腎不全のリスクもある症状だと教えてくれた。

そして、症状が悪化すると母体を守るために、
帝王切開による早産を判断することも覚悟してほしいと言われ、
それと共に、子供の早産のリスクも考慮すると1日、1週、1か月でも長く
この状態が悪化しないことを目指そうと話してくれた。

説明を受けている時も、受けた後も、
頭の中で色々なことが頭を巡り…一気に不安と心配が押し寄せてきた。

あまり、そんな素振りは妻の前では見せないようにはしたが、
その後、バタバタと部屋を移動し、
パルスオキシメーターと呼ばれる血中酸素を測るものや、
血圧測定の機器類、胎児の呼吸を確認する機械などがベッドの周辺を囲うと、一瞬のうちに妻が重症患者のように見えるようになった。

妻は絶対安静ということもあり、
病室のある階以外の立ち入りは厳禁となってしまったため、
私が代わりに飲み物や簡単な軽食を買ったりしていると、
あっという間に面会時間終了の20時になってしまった。

1人で家に帰ったあと、
電話やLINEでのやり取りは少しできたものの、
「きっと安静にしてれば数値は下がるよ」とか、
根拠のない気休め程度のコメントしかその日はできなかったと思う。

ただ、一つわかったことは
妻は事前に職場に当分休暇しざるを得ないことを電話したようで、
たぶんその時たくさん泣いたんだろうなってくらい声が枯れていた。

働く女性として、責任持って仕事していた身として、
予定通り産休まで迷惑をかけたくなかった気持ち。
それ以上に、なんで突然自分がこんな状況になってしまったのか。

それ以外にもきっと色々なことが込みあげてきて、
ただ、「悔しい」が溢れ出たんだろうな、そう思った。

そこから、私自身は夫として、父親になる身として、
一体どんなことができるだろうか。

そんなことを考えていた夜だった。

ただただ長く、激動の一日を終え、
その次の日から、
妻が出産予定日まで1日でも長く「退院しないこと」を目指す生活が始まった。

入院して翌日から3日程度は、
妻の体調や精神面は安定したものだった、

そもそもその当時は尿蛋白の検査数値が高いだけだったこともあり、一日中ベッドで安静にしているのがある意味苦痛なくらい。

家からiPadを持ってきて映画でも見てたり、
せっかく時間ができたことだし、
ゆっくり本でも読もうかなといった感じで、
面会の後の帰り道で私が本屋に寄って買ったりと、比較的余裕のある状態だった。

妻の検査自体は一日の中で定期的に赤ちゃんの呼吸や胎動の確認をしたり、血圧の検査をしたり。数日に1回エコーの検査や血液検査を受ける程度。

そんな感じで入院生活が本格的に始まり、私がまず、最初に思ったことは、
たとえ身内であっても、入院している人に対してフォローできることは実はあまりないのだということ。

唯一あるのが、
顔を出すことと、買い物や荷物の集配程度。
それが大切、なのは重々理解の上で、素直にそう思ったことを覚えている。

例えば、妻が体調的に辛くなったら、
少しでも和らぐようにサポートしてくれるのは看護師さんだし、
検査の際に立ち会うこともできない

飲み物や軽食の買い出し、
洗濯物の持ち帰り、衣類の交換。

面会時間が11-20時までだったものの、
ご飯をたべて、買い出しに行って、
検査などの時は、邪魔をしないように待合スペースに移動して。
結構あっという間に夕方になり、夕食を食べ、少し経つと20時を迎える。

といった感じだ。

自分の中では、もっと何か力になることはないかと思いつつ、
その唯一自分ができる「顔を出す」「荷物の集配」にしっかり向き合うことを最初の2,3日で決めた気がする。

まず、「顔を出す」については数分であっても基本毎日顔を出すことを目標にした。

妻の入院生活開始後、
私自身は仕事復帰をしたのだが、
幸いにも会社の制度でスライド勤務ができることを思い出した。
要は出社時間を早めれば、退勤時間も早くなるという方法である。

上司に相談した際にも、快く許可していただけたこともあり、
早期にその方法に働き方を変えた。

今、これを寄稿しているタイミングは働き方が多様な状況にあるが、
当時は「働き方改革」という言葉が浸透してきたくらいの頃だったので
会社内にはママさんのような時短勤務以外に特殊な働き方をしている人は稀だった。

スライド勤務の導入により、朝は7時から勤務開始。
16時には業務終了して会社を出る。
それ以降は、スマホ内のコミュニケーションツール等でメンバーと連携し、
遠隔対応できる環境を早期に作った。

また、個人的に思ったのは、その当時の上司に
仕事のパフォーマンスを認めてもらえていたことも大きかった。
それがわかっていたからこそスライドワークさせて欲しいと、素直に相談しやすかった。
(正直、こういうのって、日々の積み重ねなんだな、と思ったのを覚えている。)

そんな訳で、職場からは病院までは1時間くらい移動が必要だったが、
平日であっても、どんなに仕事が忙しくても、
夕方には顔を出せる環境を作ることができた。

20時頃まで面会をして、
自宅に帰って家事を多少やっては
23時頃には寝て、朝5時頃には起床する。
7時には仕事に出社し、17時には病院に着く。

自分の中ではかなりチャレンジングな生活ではあったが、妻の精神的なサポートで唯一できることが「顔を出す」ことだと思うと、全然苦でもなかった。


次に、「荷物の集配」に関して。

まさに言葉の通りだが、
妻の衣類を持ち帰り、夜や土日の午前などに洗濯して持っていったり、
ネットで入院生活や出産に向けて必要な商品を妻が購入したりしていたので、
郵送物を病院までしっかり届けることも当然ながらやっていた。

ここになぜこだわったかというと、
気を遣われるのが嫌で、
できるだけなんでもお願いしてもらえるようにしたかったからが本音だ。

最初は、少しうざったいぐらい、
必要そうなものは持っていき、
いらなかったら持ち帰る。
そんな感じでスタートしたと思う。

気分を少しでも明るくできるように
ハーバリウムを買っていったり、
やるかわからないけど定番のクロスワードや、
ディアゴスティーニの刺繍の入門的なキット付きの本を買っていったりもした。

それくらい、何か集中して入院を逆に楽しんでもらうことで
精神的に入院が嫌にならないように、
そう思いながら、毎日面会に行くときのお土産を考えていた気がする。

ただ、最初の頃はそんな形で、
妻もこの環境化を活かして何をするかという視点を持っていたものの、
日数が経っていくごとに、妻の体調は徐々に悪化し、
睡眠を取ったり、ただボーっと寝るような状態が増えてきてしまった。

大きな体の変化として、
尿蛋白の数値は引き続き悪化したのと、
それと共に血圧が高くなっていった。

それとともに、血圧の検査の回数も増え、
その結果、入院時は数回やったくらいの点滴を常につけるようになり、
その後、血圧を下げるための点滴も更に追加されていった。

「点滴は頭がカーっと来るやつで辛いよ」といった連絡が来るようになったし、
点滴の数や検査の数が増えるのが嫌で、
どうやったら血圧の検査の際に数値を下げれるか、
といったテクニック的な話を検索する姿もあった。

もちろん、そんな有効策は存在しなく、
逆に下げたいと思えば思うほど、血圧はあがっていったようにも思えるほど…。

日を追うごとに見た目も状態も病人になっていく感じで、
妻もそれが嫌だったようで、
焦りと不安が徐々に垣間見えるようになってきてしまった。

面会の時も当然会話はするが、
平日だと夕方到着した後、18時に一緒にごはんを食べて、
その後、採血や、胎動確認や胎児の呼吸確認の検査がはじまったりするので、面会後の帰路や家に着いた後のLINEでの会話のほうが、
妻の心の浮き沈みがよくわかった気がする。

よく眠れた日、点滴が取れた日、
シャワーを浴びれた日などは気持ちも安定していたし、
テレビや本を読んだりする気持ちになっていたし、
逆の日は何もする気が起きないといった感じ。

ただ、妻の心を一番支えていたのは、間違いなくお腹の中の子供で、
検査の中で子供が元気であることがわかった時の連絡ほど、
妻が安堵している様子がよくわかった。

子供自体は成長は少し遅いものの、
ちゃんと成長しているからまだお腹の中で育てていこうと
入院から1週間くらい経った日に妻が担当医の方に言われ、
とても嬉しそうに教えてくれた。

そして私はというと、担当医の方から最初に説明を受けて、
日々仕事と病院を行き来しながら、
まず第一に妻の体調を最優先に考えていた。

更にいうと、もしもの場合、
妻の体調が良ければいいという訳でもないこともずっと考えていた。
それは、妻の性格を考えると、
子供に何かあった時に自分を責める可能性が高いからだ。

担当医の方が教えてくれたが、
この妊娠高血圧症候群は何か生活習慣や遺伝などの影響でかかるのではなく、まだ要因が解明されていない症状らしい。

一方で症状が悪化しても、
母体は、重度になる前に出産さえすれば
回復傾向に向かうことはわかっているので、
ギリギリのタイミングまでお腹の中で赤ちゃんを育てたいと話してくれた。

子供の出産における死亡率や障害などのリスクを考えると、
せめて妊娠27週までは、できれば30週、35週と体調を維持出来たらという話を聞いたとき、私と妻は頑張って35週くらいまで目指そうと話していた。

電車に乗っているときなどに、
ネットで検索すると早産の出生リスクに関する情報は当然出てくるものの、
書いてあることは様々で、私の中でも不安と混乱は日に日に高まっていった。

私が妻に対してできること。
顔を出す。荷物を集配をする。

私が子供に対してできること。
それは、順調に育って欲しい。元気に生まれてきてほしい。
そう祈ることしかできなかった。

面会を終えた後のある晩、私は夜中に車を走らせた。
高速で片道4時間。私と妻が贔屓にしてきた神社まで、ただただ祈りに向かった。

それは昔、私の父親が寝る間を惜しんでも、
子供の為に夜中の高速を走ってくれたように。

父としてできる唯一のことを、私はやりたいと思ったのだ。



phase3:親の心、子知らず。親の心、子知りすぎて


現在、我が家には2人のやんちゃな小僧が家で駆け回る。
駆け回るし、散らかすし、いたずらも絶えない。

親として、元気な子供の姿を見るのは嬉しいが、
親にだって仕事はあるし、予定もある。

だから、子供のペースでなんでも進めるわけにはいかない中で、

急いでご飯を食べさせることもあるし、
無理やり着替えさせて、ギャン泣きされることもある。

子供からすると、そんなこと知ったこっちゃないのは確かで。
理想と現実は、なかなかリンクしないのが子育ての悩みの1つだ。


妻が妊娠高血圧症候群になって、入院してから
私が最も悩んだのは互いの親へどう伝えていくかだ。

というのも、
妻の体調は血圧が上がったり、下がったりと
かなり精神面も含めた浮き沈みの変化が気になるところだった。

妻は、入院開始時に職場へ連絡したときに
かなり泣いてしまったことを気にしていて、
身内にこの状況を知られることを嫌がっていた。

知らせれば、必ず電話がかかってくるだろうし、
入院先に来たいと言うだろう。

実際に話したり、顔を合わせたりしたときに、
平静を保てないことで、
血圧が上がったりすることをタイミング的に避けたい理由も当然あった。

点滴や降圧剤の投与などもあり、
日を追うごとに、妻自身も体力を失ってきているように思えた。

率直に、私の前では強がっているだけで、
本当はかなり辛いのだろうと思えるようになってきた。

そんな状況下でも、
状況的には急に体調が良くなって退院したりすることが無いこともわかっているので、
親への報告をどうするべきか悩みに悩んだ。

もちろん普通に考えたら連絡するべき話だ。
ただ、正直言うとお互い親のことを理解している分、
伝えたら絶対に連絡は来るだろうし、顔を見たいということは想像できていた。

妻の状況を優先することを入院当初は選んだが、
いよいよ自分の中でも難しい判断に迫られている気がした。

そして、私自身の親には入院から1週間を過ぎたあたりで、
私から直接話をして、本人が落ち着くまでは
直接妻には連絡したりしないでほしいとお願いをした。

こんなお願いするのは申し訳ないと思いつつ、
自分の中ではここは譲れない思いもあっただけに、
私のお願いを受け入れてくれたことに安堵と感謝の気持ちに至ったのを覚えている。
当然、もっと早く言わなかった点は指摘されたが。

そして、結果として妻のお父さんにも、
その4日後くらいに私から電話をかけることになった。

それは入院から10日が過ぎた晩に、妻の血圧は更に上昇し、
なかなか降圧剤も効かない状況となり、
ついに担当医が3日後に分娩をすることを判断した為である。

私も妻も、こんなに急に変化するとは思っていなかったが、
その日以降、妻の体調はかなりキツイ状況で、
妻も「わたしの体、限界なのかも」と言ってた時には、
賢明なタイミングなのだなと理解した。

入院から、15日。
もちろん、もっと長い期間を入院初期は目指していたが、
妻が頑張って引き延ばしてくれたことで、
早産におけるリスクを少しでも下げての出産となる。

分娩の日が決まった日、私は妻のお父さんに電話をした。
もちろん最初はびっくりされたし、
症状について説明することも、丁寧にかなりの時間をかけて話をした。

お父さんから妻のお母さんにも伝えておいてくれる旨と、
本人に会えなくてもどこかで病院に来てくれると連絡をくれた。

もっと早く伝えるべきだったのか。
このタイミングが適切だったか。

なかなか自分の中では正解が見えないまま、
非常に重たい十字架が解けたような気持ちになったことを覚えている。

そして、入院15日目。
妻とお腹の中の子供は、帝王切開手術による分娩に臨んだ。

手術の前、お腹の子の胎動がとても激しかったことを
妻から聞いたとき、
この子も戦う気満々なんだなと、父として誇らしく思えてしまった。

手術は40分程度であっという間に無事に終わり、
心配された子供も無事に生まれましたと担当医から聞いたとき、
予想以上にあっという間過ぎて、安堵や嬉しさとかより、驚きのほうが勝った記憶がある。

手術後の妻は、かなり疲れていたし、
酸素マスクをつけたり、少し熱っぽい感じもあり、
その日は安静にすることとなった。

そして、私はNICU(新生児集中治療管理室)という、
早産や低体重の赤ちゃんなどが入る治療室へと案内され、
ついに子供に会うことができた。

生まれてきた私の子は、
医療系のドラマでしか見たことなかった箱形の保育器の中で待っていた。

実際にはNICUの施設の中には20個くらいの保育器が並んでいて、
看護師さんが教えてくれた場所に
歩いて近づいていく時のドキドキ感は今でも忘れられない。

そして、かなり近づかないとその様相が確認できないくらい、
小さな小さな赤ちゃんがそこにいた。

体重は655g。
エコー検査などでは担当医から800g程度ではないかと聞いていたので、
そんなに小さかったのかと驚きもした。

少し紫がかった赤らんだ体、細い手足。
その体には似つかわしくない程の、大そうな人工呼吸器をつけ、
ちょっとデカパンな感じのオムツを履いて、
まだ、光に慣れていないため、目も瞑ったままだった。
まさに、必死に生命を保っている、そんな感じだった。

看護師さんが、ほんの少しの時間だけ赤ちゃんに触れていいと言ってくれたので、
私は保育器についている2つの小窓を開けてそれぞれに腕を入れ、
1円玉くらいに小さい彼の掌に、私の右手の人差し指を優しく押しあてた。

そして、妻同様に大役を果たして、疲れきっているだろう小さな戦士に向かって私は、「生まれてきてくれてありがとう。ママを守ってくれてありがとう」と伝えた。

そんな、私の声に反応したのか、初めて触れた私の指の感触に気づいたのか。息子は、私の人差し指を握りしめてくれた。

その細く弱弱しい手で。ぎゅっと、想像以上に力強く。

早産の出産時のリスクなど、ネットや本などで得ようとして成せなかった安心感を、その生まれたての赤子は左手ひとつで、私に与えてくれたのであった。

手術前に妻に与えた勇気。
手術後に私に与えた希望。

知るはずの無い親の心を、息子は出生日にして理解していたのか。
そう感じながら、我が家史上最大の1日を、最良の形で終えることができた。




phase4:ふたつのサイン


学校の体操服や上靴、テストの答案用紙、
書留などの荷物の受け取り、
履歴書、婚姻届や住宅ローンの審査etc…。

長い人生のうちで、
一体何回自分の名前を書いてきただろう。

そして、どれほどの重要な局面でで
自分の名前に責任を持たせただろうか。

何気なく、描き慣れた自分の名前が
人生という旅路を渡り歩く際に所々で現れる扉の鍵となることを、それほど意識せずに生活してきたと思う。


帝王切開による分娩と、子供の出生によって、
私の病院への通院内容と役割も変化が加わった。

まず妻は、出産を無事に終えたからといって、
妊娠高血圧症候群の症状が綺麗さっぱり無くなるわけではなく、
むしろ出産前より状態は重そうに思えるくらい、
酸素投与をしないと呼吸が困難であり、心拍も安定せず、
楽しみにしていた食事も食べるのが面倒になるような感じであった。

あまりにも辛そうだったのと、
精神的な不安も含めて、
出産後から個室の部屋に移動させてもらったのだが、
部屋にある歩いて10歩ほどのトイレに行くのすら、
かなりの時間を要するほど、弱体化していたのである。

出産後は貧血症状になりがちで、
体を起こして動くことが厳しい状況だった。

そんな訳で、妻は出産して2日経ってから、小さめの酸素ボンベを持ち、
車いすでやっと出産時以降の子供との対面を果たすことになる。

担当医の方や看護師さんによれば、
徐々に貧血気味の症状や体力は回復してくると言っていて、
日がたつごとに少しずつ良くはなっていたが、
出産後に聞いた、1週間後に妻が退院予定あるという話においては、
状態を見るに、ホントだろうかと思ってしまうくらい、

一般的な生活ができるイメージが湧かない回復具合だった。

一方で、妻もまた退院に向けたリハビリと共に、
子供に与える母乳の搾乳をすることが役割として増えていた。

子供を見ると母親の体は母乳がでるようになると、
看護師さんが言っていて、にわかには信じがたい話のように思えたが、
人間の体とは不思議なものである。

初めての経験ということもあり、妻も最初は苦戦しているように思えたが、
看護師さんに徐々にやり方のアドバイスをもらったりと、
搾乳についても徐々に慣れてきたように思えた。

妻の回復の遅さや、酸素投与がなかなか取れない心配はありつつ、
その頃は、退院した後に何が食べたいかとか、出生届を一緒に出しに行く計画を立てて、モチベーションを担保できるようなコミュニケーションが増えていた気がする。

そして、私のその頃の通院の役割はもう一つ。
NICUに入院している、息子の状態を見守ること。
こちらもまた、心配の付きまとう日々の始まりでもあった。

出産後の初対面の日と、その翌日に、
息子の担当医の方から、細かい話を受けた。

655gの息子は、1000g以下で生まれた子供に該当する
超低出生体重児の括りに入ること。

それと共に、妻の高血圧症候群が由来した子宮内における胎児の発育遅延と、呼吸窮迫症候群の症状があることを教えていただいた。

それだけでなく、色々な臓器が未熟であるため、
肺であれば慢性肺疾患という肺の症状が一時的に悪くなるリスクがあり、
呼吸器をつけながら、薬を投与していくことや、
循環器系の面では低血圧や心機能低下、動脈管という血管が閉じない場合などにも同じように薬を使うこと。

経腸栄養や点滴を行い栄養面のケアをすること。
神経系の話では、脳出血や脳室周囲白質軟化症へのリスクがあること。

その他、貧血・くる病・黄疸・未熟児網膜症・感染症・壊死性腸炎など、
様々なリスクについても説明を受けた。

正直な話、説明を受けた際は、
ほとんどのリスクについての説明が頭に入ってこないくらい、
聞いたこともない症状や病名の連続体で、
兎に角、余談が許されないことは理解したくらいだった。

説明を受けたことを、紙にサインする必要があったのだが、
この状態でサインをしていいものなのか、
もっとより深く、細かく理解するまで説明を受けるべきかは1人で悩んだ。


息子の人生を左右するような許諾にならないか。
私の名前をここに書くことの責任。

これがある意味、父としての最初の仕事に近かったと思う。

自分の中で、とにかく冷静に頭を整理してそれなりの結論を出したが、
それは今となっても正解かはわからない。

ただ、説明を受ける前に持っていた色々な情報だけでさえ、
未熟児や早産のリスクに関するネット情報に浮き沈みさせられていたのも事実で、これ以上の不安を自分も妻も持ったところで、
自分たちには何もできないことがわかっていることもあり、
その場についてはサインをして、気になった症状があった際に深く聞くことにした。

そんな担当医からの事前情報を経て、
出生日以降、毎日息子の保育器の前に向かう日々が始まった訳だが
両手両足に点滴や薬を投与するための管や人工呼吸器を付けていたこともあり、瘦せ細って見える姿は、安易に元気だから安心という訳にはいかなかった。

最初は何もわかっていないので、
バイタルパラメーターと呼ばれる心拍や血圧、体温、呼吸、酸素飽和度を表示するモニターにアラートが鳴ったりする度に不安になったし、
なかなか看護師さんが来てくれない時にやきもきしていたりした。

それでも、1日、1日と息子の表情には変化があり、
3日目にはうっすら目を開いて、私の顔をのぞいている瞬間に出くわすことができた。

4日目には、妻と2人で息子に会いに行くこともでき、
2人で声をかけたときに、少し微笑んでくれる一時もあった。

きっと、私たちが想像しているよりも
沢山のリスクがこの頃の彼にはあったと思う中で、
親の前で素敵な表情や仕草を見せてくれる子供の姿に、
素直に救われたとともに、毎日仕事を頑張って、それから彼に会いに行くことが私の楽しみに変わっていった。

最初の頃、NICUでは保育器の前にただ座って、子供の様子を見ていることが多かった。

看護師さんが点滴や、おむつを変えにきたりする様子を見たり、ただただ寝ている彼に向かって、その日の出来事や、ママの様子を伝えたりしてみていた。

唯一持ち込みを許されていたビデオカメラを手に、2、3時間の中で、素敵な瞬間が取れるように構えていた。

そんな感じで子供と妻、それぞれの部屋を時には行ったり来たりしながら、1週間が過ぎると妻の退院の日が決まった。

まだ、軽い貧血や酸欠に近い症状に至るケースはあったが、術後は歩くのも大変だった体は、ゆっくり歩く分には問題ないところまで回復していた。

正直、家に帰ってきた後に、私が仕事の際は妻1人になって大丈夫かと不安がよぎったが、念のため登山用の酸素缶を多少買い込み、減塩めの食事から家でも生活していこうとなった。

妻が家に戻ったのは1ヶ月弱ぶりだったが、
それ以上離れていたのではないかと思えるくらい中身が濃厚な期間だったのだろう。

病院から家に帰る際、市役所に立ち寄り
妻と2人で出生届を提出した。

妻の入院中に2人で出し合った候補の中で、
お互いが最も彼に似合うと思った素敵な名前を記入して。

息子がこの先、様々な扉を開いていく為の鍵を、
私の署名で責任を持って申請した。




phase5:生きることだけに必死


妻の退院後、生活の少し変化していく。

一つは、NICUに入院している子供に会いに病院に行く方法の変化。
妻の体調を考慮して、
毎日仕事後に自宅に帰り、
妻とシェアカーを借りて病院に行く生活が始まった。

もう一つは、妻が子供へ母乳をあげるために、
家でも外でもタイミングを見て搾乳をする必要があったこと。

この変化によって、搾乳を視野においた日々の行動が必要になったりした。

シェアカーによる通いについては、
仕事が少しでも滞ると全部のスケジュールが崩れるので、
自分の中ではなかなかハードな面もあったが、
妻と車で話しながら息子に会いに行けるという喜びもあったのでそれなりに頑張れたと思う。

搾乳に関しては、男である私ではアンコントローラブルな領域だったので、あまりカツカツな予定を組まないで行動することを心がけるようにした。

妻自身の体調は、日に日に回復はしたが、
塩分の多い食べ物は控えたりしながら、
1ヶ月くらいかけて治していくようなイメージでやっていこうとなった。

NICUでの私と妻の役目も変化が出てきた。

出生後の1週間ほどは何が起きてもおかしくない中で、
最初の山場を乗り越えてくれた息子のおむつ替えを自分たちが面会している間はやるようになっていった。

ビニール手袋をはめ、
保育器の小窓から両腕を入れて、
基本うつ伏せ姿勢の息子を仰向けに優しく動かし、お尻を持ち上げる。

そこに低体重児サイズといってもいいような、新生児のSサイズよりワンランク小さなおむつ(それでも多少ぶかぶか)の新しいものをお尻の下に最初に敷く。

履いていた方のおむつのテープを剥がし、広げ、両足を持ち上げてお尻と股をおしり拭きで拭く。履いていたおむつをスッと抜き取り、敷いてあった替えのおむつを装着。テープを付ける。

そして、息子をまたうつ伏せに戻してあげる。

このおむつ替えは
作業手順的には安易に覚えられる程度なのだが、
予め必要なものを準備した上で、

保育器の中に入れることや、両腕を小窓から伸ばして、
酸素マスクをつけた状態の700g程度の赤ちゃんを優しく動かすという条件付きの作業となる為、最初の頃は看護師さんのサポートがないと全然できなかった。

ただ、息子に対して何か自分がサポートできているという実感を感じられることもあり、妻とやり方を振り返りながら、手際良くできるよう腐らずに数をこなそうと思った。

おむつを変えると、ミルクの時間。
妻がNICUの方に渡してある母乳が、細い管を通して息子の体内にゆっくりと注入される。

確か最初は0.5ml程度から始まり、1ml、3ml、5mlと徐々に一回の量が増えていった。

たった5ml程度の母乳やミルクでも、本当にゆっくり体内に注入されていくように機械で設定されている為、20〜30分近くミルクの時間に費やす。
その後は、保育器の照明を消し、タオルを上からかけて睡眠タイムだ。

大体この繰り返しが基本となり、NICUの中にいる子供たちの1日は流れていく。

そして、それをベースに子供たちの週数や体重、症状に合わせた薬や点滴の投与を行い、
1日1日子供たちの成長を医師や看護師の方々が見守ってくれている感じだ。

私の息子の周囲にいる別の家庭の子供たちも、
同じように妊娠30週での早産の子や、800gくらいの小ささで生まれてきた子がいたりと、様々な状況に置かれた未熟児たちが、必死に生きている世界。
私が通っていた時期だけでも20人くらいの子が、同じ環境下に置かれていたのである。

実際にNICUの中に入るようになって、
少し俯瞰して周囲が見れるようになってからは、
この世の中において、ただただ必死に生きることにベストを尽くしている
小さな子供たちが1つの病院にこれだけいるのか、と素直に感じたし、
日本全体、世界全体でも同じような子供たちがきっといると思うと、
医療の発達がどれほど尊い話なのかをまざまざと見せつけられたようにも思えた。

視力や聴覚なども含め、定期的な検査を受けながら、
1日1日を乗り越えて、
1週間、2週間、3週間が経った頃、
ミルクの量の増加と共に、息子自身の体重が増えるようになってきた。
出生から約1か月経った頃には800gを越え、
ここから先は、体重を含めた体の成長についても楽しみになっていく。

妻も退院後、1か月程度経ったころには
電車を使って自分で病院まで通える程、体調が戻ってきており、
シェアカーを利用する数は極端に減った。

妻は、私の仕事帰りに一緒に息子に会いに行く日もあれば、
面会が可能な昼すぎからNICUへ入り、
私が夕方やってくる頃には交代で家に帰ってご飯の支度をしてくれるなど、
やっと夫婦の力を純粋に1+1で考えられるような形に戻った時期だったと思う。

毎日、息子の姿を見て、
「笑ってくれた」とか、
この頃、少しずつ声を発する時があったので、
「こんな声してたよ」とか、
「今日はずっと寝てた…」などを共有しあうことが
私たち夫婦の生きがいとなっていた。

一方で、もちろん不安は常に付きまとっていたことも事実。
バイタルパラメータのアラートは鳴れたものの、
長い間血圧が高くアラートが鳴り続ける日や、
体温がいつもより高く38度台だったする日などは、
1週間に1回は訪れ、
その度に担当医や看護師の方に心配しないで大丈夫か聞いてしまう感じだった。

また、息子以外の子たちが急遽手術に行ったり、
NICUの中がバタついていたり、
看護師の方同士がしゃべっているネガティブな情報が、
うちの息子のことを話しているのではないかと、悪い方向に考えてしまう日も多々あった。

そして、NICUの隣にある、2000g付近の体重より大きい、
状態が安定してきた赤ちゃんが入るGCUにいる子供たちや家族の姿を遠目に見て、
羨ましく思える時も少なくなかった。
GCUでは赤ちゃんは保育器から出て生活しており、
家族は抱っこをしたり、お風呂に入れる練習をして、ゆくゆく退院をしていく。

そんな姿を見て、私の息子があの環境に行くまでにどれくらいの時間を要するのか、
その時はあまりイメージが湧かず、
かなり先の長い話のようにも思えてしまった。

それでも、どんなに仕事で遅くなっても、
面会終了の20時までに、10分でも顔を出せそうであれば病院に向かい、
ほぼ毎日、息子と顔を合わせることを続けた。

息子は、寝ているときでも保育器の前に私が座ると、
それに気づいて目を開けて見つめてくれたり、
手を上げて答えたりしてくれることが多く、
私と妻に会うことを楽しんでくれているように思えたから。
だからこそ続けることができたのだと思う。

そして、息子の頑張りは目を見張るほどになっていき、
体は着実に大きくなり始め、体重も1000gの大台を突破。
呼吸器も外せる時間が増えたり、
1本ずつ点滴や薬の管も抜けていった。
その1つ1つの変化の度に、安堵を与えてくれた。

状態が安定してきたことで、
私と妻以外の、祖父母の面会も15分程度であれば許可してもらえた為、
私たちの親たちへも息子をお披露目することができた。

お互いの親にとっても初孫であったので、
本当は抱っこしたい気持ちもあったと思う。
それでも、息子が力強く生きて、
必死に成長しようとしている姿を見てもらえただけでも
一つ前に進んだ気がしたし、
少しでも早く抱っこさせてあげたいという気持ちも持てるようになった。

私は毎日病院の帰りに、
自宅近くの神社へお参りをして、
氏神様への感謝と
息子と妻にこれ以上悪いことが起きないように祈ることを続けた。

こんな小さな未来への希望の積み重ねを
一つでも続けることで事が良い方向に進むなら、
時間の限り、何かできることを必死にしようと思えた時期だったと思う。

あのNICUで過ごす子供たちを見ていると
一秒たりとも無駄な時間なんて存在しないのだから。




phase6:生きられること、生きられないこと


息子が生まれて1か月半経つと、
呼吸器を外しても一定時間安定していたこともあって、
「カンガルーケア」という
少しの時間、子供を保育器から出して、
親が抱っこをしながら、肌と肌を合わせる形で
スキンシップをとる保育にトライできることとなった。

まずは妻が実践。

初めて息子を抱っこできたこともあり、
「幸せな時間だったなぁ」と何度も言っていた。
やはり、体温を感じて気持ちいいのか、
息子もすぐに気持ち良さそうに寝てしまったようで、
彼にとっても人生初めて人肌に触れ合った瞬間だった。

カンガルーケアをした後に
妻が搾乳をしたら、いつもより倍ぐらい母乳が出たという話を聞き、
生命の神秘みたいなものを感じた記憶がある。

その1週間後に、私もチャレンジ。

妻の言葉のとおり、こんなに幸せになれるのかというくらい、
直接息子の鼓動と呼吸を感じながら、
二人して気持ちよく眠ってしまったほど。

息子は呼吸器をつけていなくても
呼吸がかなり安定してきていて、
たまに大泣きして自分で呼吸器を外すようになった。

おむつ替えについても、
協力的に足を伸ばしてくれてお尻を上げやすくしてくれたり、
排便もしっかり自分でできるケースが増えてきた。

出生日から2か月経った頃には
母乳は20ml以上に増え、1日1mlずつ量が増えていくようになった。

この頃には1300gくらいの体重まで成長。

息子の頑張りのお陰でやりがいや楽しみは日々あったが、
私も妻もそれぞれ献身的にサポートを続けたことで多少の疲労は溜まるようになっていた。

そして、それとは別に、
私が父親を学生時代に亡くした後、
残された私たち家族の面倒を一番見てくれた叔父がステージ4の癌で
入院したという話が飛んできた。

私は、休日に息子の病院へ立ち寄った後、
叔父の入院先へ2時間程度車を走らせ向かった。

叔父には私の母伝いで妻と息子の話がいっているのはわかっていたが、
当然、日々の忙しさもあって、子供が生まれたことを直接報告できていなかった。

叔父の入院する病室へ行くと、
元気な様子で私を迎えてくれた。
いつも通りではないが、聞いていたほどの病状には見えないように思えた。

私は、ビデオに撮り溜めしてあった息子の写真を見せ、
今、必死に生きようとしている子供の姿を見せることや、
息子が退院して抱っこしてもらうまで、頑張って生き続けて欲しいことを叔父に伝えた。

その後も息子の成長は引き続き順調で、
呼吸器を外す時間が日に日に伸びていったこと。

母乳自体も哺乳瓶から少しずつ飲めるようになっていき、
その1週間後には、直接母乳を上げることにも挑戦するまでに。

浣腸せずに、排便も自分でできる回数が増えた。

何より体重も1500gを越え、
「もうほんとに赤ちゃんって感じだな」と
妻と話せるようになってきたことが、何より嬉しかった。

そんな矢先、叔父がこの世を去ったと連絡を受けた。
つい先日あった後、容体は急変し、かなり苦しみながら亡くなったと聞いた。

そこから、妻と共に、お通夜と葬儀に参加し、
あっという間に大切な人を失うことを改めて経験した。

そして、人生の終焉ですら、思い通りにいかないことを痛感した。

生きられることと、生きられないこと。

自分がその当時置かれた立場で受け取った「生きる」ことの難しさを感じ、
それと共に、息子には障害も残らず、健康に生きてもらいたいと強く願った。

葬儀が終わって、ふと妻と話した。

私たちの息子が、予定日より3か月も早く生まれてきてくれたことで、
私がお世話になった叔父に息子の写真や動画を見せることができたんだと。

もともとの予定日だとそれは叶わなかった。

次の日、私は息子に感謝を伝えた。
早く生まれてきてくれて、ありがとう、と。




phase7:掌


息子の出生から3か月が経とうとするころ、
彼の体重はついに2000gを越え、
ついにGCUに移動を果たした。

GCUにいって間もなく、
保育器も卒業し、
無呼吸センサーの付いた新生児用のベッドに移動。

3か月お世話になっていると、
看護師の方々も息子を可愛がってくれるようになったし、
後からNICUやGCUに来た赤ちゃんとその家族の割合が増えてきたことで、
私も妻もある意味ベテランの領域に来ている感じもあった。

GCUに入ると、
子供をお風呂に入れる練習や、耳や鼻の掃除、
哺乳瓶や直母による母乳を与えて、寝かしつけまでチャレンジしてみるようになっていった。

取り分け、お風呂のトレーニングは、
息子自身も泣きじゃくることなく、とても気持ちよさそうに入ってくれるので
また新しい楽しみが増えた気がした。

まだまだ赤ちゃんとしては小柄な息子には、
吸う力が弱く、妻は母乳をあげることに多少苦戦していたが、
それでも哺乳瓶でそれなりに母乳を飲み続けてくれたし、
寝かしつけも、なかなか看護師の方のようにはうまくいかなかったが、
父親として、母親として、
子供が生まれたら当然やるべきミッションにトライし始めることができた実感を手探りながらも喜びながら実践できていた。

私の母や、妻の両親も時折面会に来てくれて、
私たちが息子にしている様々なケアや保育を見守ってくれた。

そして2200gを越えた頃、
担当医から2週間後に退院できるかもという話もいただき、
この段階においては、生まれたときに心配されていたリスクもほぼほぼ無さそうだと教えていただいた。

この時の安堵感は、抱えていた不安が一気に飛び去るというよりは、
張りつめていた緊張感が解け、
逆に疲労感でいっぱいになるほどのモノだったことを強く覚えている。

私と妻も、いよいよ息子が家にやってくると思うと、
彼が病院で過ごしていた環境にほど近い状態にできるように、
準備に追われながら、予定通り退院できるようより献身的に過ごしていた。

そんな、いよいよ退院が見えていた矢先、
息子が鼠径ヘルニアという、股の脱腸が起こっていることが判明。

体の大きさの関係もあり、
未熟児が鼠径ヘルニアになることは稀にあるようで、
担当医からは退院前に手術をしてしまった方が良いと相談を受けた。

このまま放置して、退院後も含めて
もう少し体が大きくなってから手術をする手もあるとも言っていたが、
幸いにも息子が入院している病院内には、小さな赤ちゃんに対しても同様の手術ができる実績のある先生がいらっしゃるというお話も教えてくれた。

この話を受けたとき、
なぜ、この子はこんな小さい体なのに生まれてからこんなに大変な思いをしなきゃいけないのか、そう思った。

手術によって、退院の予定がゼロに戻ってしまう悔しさと、
安心したら、また次の不安がやってくるこの3か月のサイクルが一向に終わらないストレスの頂点がこの時に来てしまったと思う。

私も妻も、子供が家に来ることを楽しみにしてきた。
それでも、子供の健康や将来のリスクを残したまま退院することも避けたい気持ちがあった。

そして、私たちは、このまま手術を受けさせてもらうことを選んだ。
今の息子なら強くこの最後の難局も乗り越えてくれるはず。
そして、今まで私たち家族をしっかり支えていただいた病院の方々への信頼が、

この判断に至った最大の理由だと思う。
2週間後に行われた息子の手術は、結果として成功に終わった。

すべて結果として救われることしかない、様々な判断への、最後の祈りも神様は受け取ってくれた。

手術後、私が息子の元へ行ったころ、
麻酔が切れ始めたようで、
今まで見たことないくらいに、泣き喚いてしまった。

どんなに抱っこをしても、おしゃぶりをくわえさせても、
今までのようにスッと泣きやんだりすることはなかった。

大人でも、手術後の麻酔が切れて寝れないくらい痛いのに
私が面会を終えた後も、
小さな体で、その晩は沢山、沢山泣かせてしまったんだと思う。

謝るのはお門違いなのはわかっていつつ、

「本当にごめん」としか、息子には言えなかった。
こんなに辛いのに、一緒に一晩いてあげることも叶わないことに、
申し訳なさだけが残った。

翌日、安定を取り戻した息子の姿を見たときに、
この子は本当に強くて、親孝行な男だと、心の底から思ったことを覚えている。
この子を大切に愛していくことが、私の今後の人生の役目だと強く思ったことも忘れていない。

鼠径ヘルニアの手術を終え、約2週間。
最後の最後に抜糸を終えて、最後の検査を受け、
もともとの予定から1か月程度遅れて、退院の日を迎えた。

妻の入院も含め、
長く、沢山の浮き沈みがあった約4か月。
私は、夫として、父親として。
妻は、母として。
そして息子は、2400gを越えた赤ん坊として。

家族3人で、我が家に向かう日を迎えた。

お世話になった病院を出たとき、
生まれて初めて、息子は外の空気に触れた。

生まれてから134日。初めて眩しい日差しを受けた。

500円サイズくらいに、大きくなった掌を盾に、
日の光から目を守った彼の愛らしい姿は、多分一生忘れないだろう。




phase8:誰かの救いに


正月にやろうと約束していた凧揚げを
2月に入ってからやっても、3歳の長男は許してくれた。

相変わらず、優しい。

1年前までは、ただ楽しそうに見ているだけだった凧揚げも、
もはや自分一人で糸を持ち、片手で上手に凧を空に泳がせることができるようになっている。

子供の成長ほど、予想が当てはまらないものは無い。
今でもそれは続いている。

妻の妊娠高血圧症候群の発症後、長男が生まれて約3年半。

この間に、あの保育器の中から人生をスタートさせた私の息子はお兄ちゃんになった。

2つ違いの1歳の次男が生まれた後は、
少しずつ自分が兄である自覚を持ち、
兄弟喧嘩も日常茶飯事ながら、
それでも次男や家族に優しい、立派な子供に育っている。

この3年半の期間、同年齢の成長曲線の平均値よりは体重も伸長も下回るものの、現段階では、発達障害に該当するような要素は見られず、
通っている保育園でも楽しそうに、他の子と変わりなく生活できている。

私も妻も、長男が順調に育ってくれていることに日々安堵しながら、
この3年半を過ごせた。
本当にありがたい話だという気持ちは今でも変わらない。

次男の出産時にも、妻が妊娠高血圧症候群を発症するリスクもあったので、
あの時、私たちを支えてくれた病院で出産をさせてもらえたこと。
自宅近くにたまたまその病院の元スタッフの方が開いた産婦人科で、
一般的な定期健診のペースよりもマメに妻の状態を見ていただけたこと。

退院した後の長男の発達健診も含め、今も相変わらず支えていただいて、今に至っている。

妊娠高血圧症候群、超低出生体重児、NICU・GCUでの生活、未熟児の外科手術。
3年半前に経験した、我が家にとっての大きな出来事は
今も色褪せることなく、強く心に刻まれている。

私と妻においては、自分たちが置かれたものと同じ境遇を乗り越えた人が、
数年後、どのような生活を送っているのかわからず、

子供が障害を持つ可能性や、それこそ何年生きられるのかまで、
ネットや本を調べても簡単に情報が当時はあまりなかったことで、
大きなストレスと不安を抱えながら、何とか家族で協力できたと思っている。

その為、3年半を迎え、
家族として少し安定に入りだした今だからこそ、今後、私たちと同じような状況に悩まれている方の救いに少しでもなればと思い、当時の出来事を些末ながら書き綴ってみた次第だ。

そして、この寄稿によって、更に当時の記憶が色褪せず、
いつか息子が大人になった時に、
詳細に私と妻が、彼と向き合い続けた世界観はどうだったかを、
お酒を飲みながら話すのが、私の一番の夢である。

この655からの力強い行進を、
これから先も私は一番近くで見守っていく












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