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「私」の中の「わたしたち」を回復するということ=科学精神・対話精神の奪還・

トラウマは簡単には癒されない=杉並区に二度と住みたくない=


私は、子供のころひょろひょろと背が高く、手足が長かった。父親は舞踊家に弟子入りしたこともあるせいか、自分もまたダンスや歌手の振付はすぐに覚えられる感性をもっていた。そのせいもあってクネクネしているようにも見えたのだろう、と今では思う。オカマだ、オンナだとさんざん弄りまわされたし、中学に上がる頃には「キモチワルイ」がついてまわった。
「アタシより女らしい事が気に食わない」「キモチワルイ」「キャンディーズ解散万歳」「今日は母親に叱られて気分が悪いからお前を泣かす」
それが大学をすぎてもイタ電というかたちで30過ぎまでつづいた。
ついには「テレホンセックスさせろ」と性的な電話へと変わっていった。
毛嫌いする人間が周りを組織化し不快を露わにすることで同調圧力を組織するのは女子の方が多かったし、その狡猾な手口は現代のいじめにおいても、また逆にそれらの経験から反感・恨みへと変貌したGAYたちのミソジニーの底流にもなっていったとしても不思議ではない。同じ土俵の上に乗っかったいじめの応酬がこんにちただいまの「男性中心社会」の一翼をになっている。いやむしろ、クローゼットなGAYたちが自らいじめられた自分をひたかくしにして強者として人間関係や待遇や人事で報復したのが主流だったのかもしれないと最近思う事も増えてきている。

近代以後の社会であるならばすべてがガラス張りであるはず

大学や会社組織などがなぜ、ミッションやコンセプトや憲章、社是、規程、認証評価制度、外部評価委員制度などをISO規格準拠など21世紀に立て続けに世界の潮流に「倣って」始まっているのか?実は日本社会は周回遅れの近代以前の体質を持ち合わせている資本主義社会だから文字の通りに「倣って」いるにすぎない。
「革命にあらず移動なり」(北村透谷)
と明治の思想家が嘆いたのもまさに形式論理だけをなぞってあたかも実践してますというポーズ=やってる感だけを演出するというものだった。まさに演じているだけなので心底思考の形式として自分たちの日々の実践哲学の中に取り込んだわけではない。ある学者は「形而上学的」と批判したこの「形式論理」は外見的動作や容姿風体のくせにやたらと「気合」「やる気」を要求するわけだが元来中身の備わっていないものに精神性など宿るわけが無いのだ。この二律背反を強要するから暴力的な同調圧力を生み抑圧型の強制力をともなうものへ、罰則規定ばかりが目され、ついには「義務」ばかりが目立つものへと変わっていった。

「権利(意見)は義務を果たしてから」は奴隷社会の発想。

「権利を主張するのは義務を果たした人間だけだ」という思想は奴隷の存在する階級社会(封建制)や奴隷市場を前提とした資本主義社会(支配と隷属)を象徴する構造的な考え方である。やたらと生活弱者を攻撃したり、自分よりすぐれた資質や容姿を持つものへ攻撃をしかけ「出る杭は打たれる」「抜け駆けは赦さない」ということを「教えてあげることは親切だ」と抑圧と介入に走るのは奴隷社会の奴隷階級の人々の精神性、つまり「奴隷根性」をよく反映した行為行動であり、これらを指して特徴づけているともいえる。それだけ物質文明が極限まで進化しようとしていても、そこに息づく人間である私達の多くは内なる精神性に問題=未熟を抱えて生きている。

「権利を実行するなら責任を伴う」が近代の、フランス革命以後の人々のものの考え方。民衆個人の自立に基づく思考・行動に関する法則を「権利・能力・責任」の三位一体で社会の規範とした。それが近代法の考え方。その法則を成文化して人々の生活基盤としたり最低限保障されるべき個人の尊厳を規定したり、権力者や資本家たりとも個人の尊厳や存在をないがしろにするような自己目的化は赦さない、と戒めたのが法律でありその最高法規が憲法である。だから憲法改正をするのであれば弱い立場の人たちのために改正されなければならない。権力者が主導する憲法改変は必ず改悪であり歴史を逆戻りさせる行為に終始する。これが社会発展の法則=社会の科学だ。

優生保護思想由来の発想を点検せよ=仲間である市民大衆に生産性阻害因子は一人も居ない=


「権利を行使するには能力、責任をとる能力を持たねばならない」という考え方に立脚するのであれば、「能力をその人のペース配分で身に着けていければそれでいい」というデンマークや京都大学が示している「留年のない学校制度」発達段階に即して発達を促す教育課程が信頼され、同時にこの部分が少し届かなかったあるいはまだ発達しきれないから次の評定までもう少し頑張ろうという「到達目標」と「評価」も貴賤上下や比較を伴わない評価にかわる。デンマークでは弟の方が日本でいう学年が上だということもざらにあるしそのことで「お兄ちゃんしっかりしなさい」とは一切言われない。この科目やこの部分が弟は早く到達したからクラスが違っただけだ。兄はゆっくりと自分に見合った能力を養っていると評価され尊重される。
家庭の基盤が一人ひとりを尊重できているから、学校で多少喧嘩や関係悪化があったとしてもそれは直ちに家族が否定できるし、そこから対等平等な話し合いの場を学校やクラスへ要求することだってできるではないか。


(男性が)「能力や資質を鍛えずに威張れる最後の砦」が「性別」


中世・近世の歴史的反省は端的にいえば何だったか?
これは戦後の日本が方向転換する際に「天皇制』以外に外部からの強制力を伴って手放した数々の前近代的因習の一つ一つを点検すれば本当は分かるというものだ。明治時代以後に「外国の外面を模倣する」事を天皇の権威と軍部の脅しで作りあげたのが明治政権による「富国強兵」策だ。外圧と列強への恐怖を梃子に武器と文明の表層だけを取り入れ支配する事が明治時代以後の日本近代の正体だったはずだ。その骨子とは、「ゆがんだ感性の人たちに権力や財力を過剰に持たせてはならない」という教訓以外ではないのではないか。たった一言でいえばそういうことだ。で、このことを個別の依怙贔屓を避けてマスで行うには「ゆがんだ感性」の人間の側に「まっとうな感性」の人達が権利や財力の一定量の放棄を「社会貢献」に活かす、ということ「富の分配」とか「社会的責任を果たす」という言い方で富裕層が弱者への支援と応援を承知したことが「現代」社会=共同体型資本主義社会の始まりだといってもよい。
これは世界共通でいえる。法則とは時代を経ても地域がちがっても全地球的に共通するからこそ法則にできる=科学的理解に至るものだ。
それがどこかへ消し飛んで、差別や不当圧力や理由なき人事攻撃などがどこからともなく飛んでいく。理由と結果は示されないのだから何をかいわんやである。
一人一人の能力がないから、どこかから「お墨付き」や「病名」をもってきて比較をして引きずり降ろそうとするのも愚民化・愚衆化が社会で進んでしまっている特徴でもある。「健常者」というアイマイな主情的な概念ばかりが闊歩しているのも「何をもって障害・不適合・弱点・欠点・病気・正気とするのか」がないからだ。バカな人間を模倣したところで自分がますます貶められ、卑しい自分を知らしめていることに他ならない。2流3流で構わないから超一流と対等平等に、かつ謙虚に学ぶ事を繰り返す機会はどんな人だってあるのだ。ここでいう超一流というのは著名人や権威ある学者や偉人を意味しない。人の兄や姉でいいから、身についた教養と知恵を惜しみなく後続の世代に伝え自らも関係性の中で新たに発見するよろこびに眼を向け周囲を裁いたりしない出会う人たちすべてをリスペクトしている無償の愛に満ちた貴重な人達こそが本来の主役=有用な一員なのだ。金持ちか否か、学歴があるか否かはまったく関係が無い。
そういう人間観で戦後国際社会の一員として民主主義を手にしようと努力する社会の樹立に向けて、所得税を累進課税制度にしたわけだし、国民皆保険制度を置いたわけだし、生活保護制度も置いてきたのは日本国憲法が今述べてきた対等平等に尊重する人間観に根ざした民主主義の社会実現を目指すと国民に約束し、立法・行政・司法の3つの権力は特にこの憲法の下で国民に危害が及ぶような行いをしてはならないと縛りをかけ、3権に属する仕事に携わる人達が私利私欲(つまり、金銭や名声や所有・支配といった地位にもとづく考え方で国民を抑圧することがないようやは重要だ。狂気に罪をもたせれば人を見下した態度ばかり助長されたら、それこそ公共の福祉が育たなくなる。社会的責任のために果たす行為が称えられる事が重要なのも尊厳と名誉というインセンティブは誰にでも平等に公平にあるのだが、寄付行動への賞賛は富を持つものにしかできないことだ。

BL作品はLGBTではない=ミソジニーと表裏一体の性欲美化=

「風と樹の詩」(竹宮恵子)などに描かれている嘆美なBLは、キラキラベールに囲まれた遙か彼方の透明な世界のような距離感を保ちつつ、ともかく性暴力シーンに直結しているものが多い。略奪、背徳、隷属、屈服、嘆美・・・。だけど、同性愛者やLGBTを描いたものではなく、あの当時、つまり70年代~の少女ファンタジーを描いた(つもり)なわけで、支持者は圧倒的に女子。つまりは男性の性への横暴や性暴力、家結婚という封建時代の因習をそのまま残している男性中心社会の中を是とした中で女子が、男が襲われるセックス、というものへ抱く願望=セックスファンタジー以外ではないのだ。

少女マンガもAVもファンタジー=性教育も性の尊重も育たない=

少女マンガでのうのうと「理解ある男の子によって私は幸せになれる」かのようなファンタジーのまんまジェンダー論を学んだらそれこど滑稽な人間観になるのではないか?文字ヅラでLGBT理解なんて言い出したって、デートDVや略奪愛に心中、共依存・・・そりゃ当事者目線からすれば噴飯ものだ。・・・と言いたいところだが、当事者も当事者でどーっぷり首までファンタジーに染まった人達が少なからず居る。むしろ耽美なファンタジーよりフェチと言われる性行動に直結した病的執着にまで高まった妄想の世界の人達までいるわけだから当事者性は諸刃の剣。気をつけないといつでも狂気に足を絡め取られる。多様性というのは手を握る決心まで1週間悩んでしまう繊細な人からタイプだとなったらそく股間を握る衝動に駆られる人までありとあらゆるタイプがあるわけで、「男性一般」「女性一般」があるようで実態がないのと同じように「LGBT一般」は存在しないのだが、妄想ワールドはどこまでも、無料で、楽しく、手軽に、執着していられるものだから知らず知らず自分だけの物差しで考えがちになる。自分の願望に最も寄り添ってくれる人や意見ばかりを追い求めたくなるのも人情。だが、そのスパイラルにハマったら回りを見回すゆとりはどんどん無くなっていく。排水溝の開いた池の渦のようにどんどん加速する水流に持って行かれてしまうから意思の力ではどうにもならなくなってしまう。
だから余計に「女性スペースが守られるべき」と主張する人達の言葉と感情と行動の乖離はすぐに見抜かれていく。貴方任せでいつまでもアクションはおろか次第に回りの声の大きな人に「おまかせ」モードになってぶら下がるだけになってしまうからだ。
民主主義社会のイロハであるはずの「権利は不断の努力で守る」ではなく「権利は男の努力で守らせる」ものつまり「普段の努力」に変換されるわけだ。馬鹿馬鹿しいからすぐに飽きられ相手にされなくなるのは必至だ。

センシブルな話題や内容に向けるセンシビリティのかけらも育ってないでやれ性行動学やセクシュアリティを「研究しましたー」なんて輩があたかも理解者のような顔して出てくるんだから、当事者のいないところで作りあげた書物で当事者以外が頭でっかちになって「さあ支援します」なんて飯の種にしようとするんだから迷惑千万な話までとびだすわけだ。
あんなんで博論通って大学教授に上手くすべりこんだとしても、学位は取れてても迷惑なわけです。勉強できてもバカはバカなのだ。

何気に、伊藤文学や南定四郎たちが居場所を与えられていたゲイだのオカマだのの世界もまた、男性中心社会の傍若無人の密かな影の楽しみ・裏街道の肝試しも含めた世界でひっそりと居場所を与えられた、その限り「クローゼット」以外の何物でも無いものだ。ただそれは女性と好みの男を奪い合う争奪と略奪の歴史があったわけであり、当然クローゼットな人達の放つ「ゲイゲイしさ」は言ってみれば女性との略奪合戦に「勝った」勝ち鬨がミソジニーとして「仕返しされる」だけであって、おおかたは幼少期に女性から被ったトラウマの仕返しだった場合も多かった。それらを全部棚上げして「オッサンの言葉=古典社会科学」の用語で女性の被害性のように課題を翻訳/列記するにとどめた無責任な学者が上野千鶴子たちだということはできるだろう。

当事者以外の人間が当事者対策当事者支援を考えプロダクトアウトする時代が1990年代までの学問や臨床、行政の主流だったのだから歴史的現実の中での限界はある。しかし21世紀ももうじき4分の1を歩んできたこの季節グローバル時代がどうのと資本家たちが言う割にはずーっと封建社会のまんまという因習的な日本の市民社会の現実はそろそろ乖離と言うだけでは説明がつかなくなってしまっている。


人間の発達に貴賤上下をつけようとするのは、戦後の厚生省の行政姿勢「生産性阻害因子」をあぶり出して排除する、という優生保護思想がいまだに負の遺産を残しているという事を肝に銘じたほうが良いと思う。
「生産性阻害因子」という発想は「優生保護法」全生園に代表される隔離差別の政策や「養護学校」に貧困・暴力・肥満・発達障害・精神障害の子どもたちを次々に難癖をつけて送り込み、「普通課程」に均質で同じ子どもばかりを集めて教育訓練を上意下達型にまとめあげようとさえした。「期待される人間像」や新興宗教の「修養」で飼い慣らす矯正教育のスタイルを随所に取り入れていくようになり、戦前の政府がぶちあげていた「単一民族論」も担ぎ出すようになっていったではないか。

日本語にない概念が「国」=民族経験の中で占領や革命の経験がない事が言語の欠落をうんでいる=

日本語は色あいや季節など外側のことをいいあらわす言葉は実に豊かに備わっている。しかし、欧米やアジア諸国のような言葉はどちらかというと近代の国語教育で生まれてきた熟語の概念が目立つ。
多くの人が「国をあいする」と言う場合、「郷土」「ふるさと」を指しているのではないか。英語だとこれらがLandやHome townがあるだろう。で、State(政権)が悪事をしたらStateを転覆させ・悪党を懲らしめて自分たちの言うことをきく仕組みを作れば良いというrevolution の考え方や行動も簡単に採用することができる。しかし日本だと「国を愛するから国を倒す」「国を破壊するだなんて何事だ私の国だぞ某国論者め」という曖昧概念の応酬が続くようになる。政策や社会を科学的に論じるには言葉に託した概念(思考の形式)が明確である必要があるし、その概念に根ざして場面の条件の中で言語を操作しなければ言葉などブレブレで読みも文章表現も「科学的なもの」から遠のいてしまう。主情的な観念に流されないためにも言葉が場面に規定されること、概念として思考の形式が厳格に使い分けるために明確に言葉に内包させ、機能的に用いる、ということを心がけないと言葉も信号として機能できなくなる。
母語か母国語か、のような「国」という漢字がはいったかどうかだけで敵にされるような硬直した言語観では言霊思想と何ら変わらないではないか。母国語は「国家語」ではない。むしろ国家語として上から与え下そうとされているのが「標準語」や東大国文学会が示すところの「国語教育」(主題・構想・叙述)の三読法でもある。
(国語教育の反省と言葉の芸としての文芸認識論については、「芸術の論理」(三省堂・熊谷孝)などを参照いただきたい)



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