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反知性とカルチャーの歴史

マンガ・アニメ カルチャーの創始者達は“大人”だった。

 80年から向こう“反知性”という流れは止まらない。
 それは漫画・アニメ・音楽などのサブカルチャーの歴史を辿ることで見えてくる。
 手塚治虫水木しげる戦争を経験した若者=“大人”だった。
 その後の藤子不二雄赤塚不二夫石ノ森章太郎などのいわゆる「ときわ荘」の面々は戦争を子ども時代に体験した。手塚や水木とは違う世代だが、これまた“大人”の漫画クリエイターだった。
 『あしたのジョー』の梶原一騎などは、いわゆる“団塊世代”で、社会の平和や日本が経済的に豊かになっていく過程で生まれる“階級格差”的なことへの反発という根底のある若者=“大学生”=“大人”だった。
 しかし、80年代に『Dr.スランプ』あたりで鳥山明が「知性の破壊」を“あえて”行ったことがキッカケをつくる。


コンテンツのコドモ化

 鳥山明
色々難しいこと考えてたけどオマエら失敗したやん
 と団塊世代へのアンチテーゼをやってのけた。
 この頃『おニャン子クラブ』が大ブームになり、それまで社会の在り方を「豊かさ」や「平和」「平等」という普遍的な軸で思考していた現象は消え去り「豊かなのは当たり前」「平和なのは当然」「金と恋愛が全て」というまさに“反知性の見本市”が公然と恥ずかしげもなく大風呂敷を広げるようになっていく。ここからが、90年代~00年代へ向かう“反知性”コンテンツのスタートラインではないかと考える。
 しかしながら、そこにはまだ“大人”が介在していたわけで、それを消費している大半が高校生~せいぜい大学生が中心となったコンテンツだった。
 ところが、90年代に突入すると「コンテンツのコドモ化」は加速していくことになる。


現実から目を逸らすための消費

 90年代はバブル崩壊から、95年のオウム真理教による地下鉄サリン事件で日本が一気に崩壊の時代に向かっていく。

 消費者は辛い現実から目を逸らすように「反知性」コンテンツをひたすら“消費”していくようになる。
 「難しいことは分からない」「単純なものしか理解できない」「分からなくてもいい」そういったマインドがまるで病魔のように一気に広がる
 モー娘羞恥心ファンモンドラゴンボールセーラームーン、その他萌え系アニメ etc.
 リストラ・自殺・いじめ・引きこもり、地獄のような“外の世界”を見ないように、“虚構” “日常” “ご近所”で「キラキラ輝いてるぜ俺達私達」という時代が到来するようになる。

 現在の異世界ブームなんかは、まさに“現実逃避”の権化だ。そしてそれを「分かってない」。分からないまま消費して、そこに安息を求め安寧に生きようとする。
(現実で)「何かと戦ったりしない。」「誰かと競ったりしない。」「夢を叶えようなんて思わない。
 いつの間にかそんな人生を自ら望み、“外の世界”を見ようとすることを放棄したかのように見える。
 何故ならそれらは現実の代替品としては。あまりにも“虚構”だから。


『進撃の巨人』は“アンチ反知性”

 70年代のピンクレディのような、「分かってる」大人が“子ども感を演じる”カルチャーとは違って、「分かってない」大人に向けて消費させている構造になっていて、そこで過去にはまだ高めようとしていた“自意識”というのが谷底にまで到達したのが、10年・20年代のカルチャーが体現しているのではないだろうか。
 90年代後半に見られた「自分たちの周辺の出来事への注視」「日常世界の尊さ」という作風はほとんど見受けられなくなり、ファンタズムに満ち溢れた“虚構”を描きつつ、「そこに何かがある」という曖昧性を内包したコンテンツが量産され、今までにないスピード消費されているのだ。
 皆、前々期のアニメのラインナップをほとんど忘れているのではないだろうか? それほど今のコンテンツ消費スピード速い
 そんな時代に“”を唱えたのが『進撃の巨人』という漫画作品だ。
 諫山(いさやま)創、という作家は23歳でこの『進撃の巨人』という作品を世に産み落とす。
 謎の巨人達が現れた世界で、人類は何重かの高い壁で囲まれた街に住み巨人の脅威から逃れて暮らしていた。しかし、主人公エレンは幼いころから壁の外の世界が見たいと考えており、壁の中で平和ボケしている住民からの抑圧に苦悩していた。そんな折、巨人が壁を破って街に侵入し、エレンの母親は目の前で巨人に喰われてしまう。
駆逐してやる!」この有名なセリフは母親を殺された巨人への恨みを表す。と、同時にここに含まれている“怒り”や“憎悪”、“嫌悪” は暗喩として今まで壁の中でぬくぬくと暮らし、いざとなったら逃げ惑うばかりで戦おうとしない者たちへ向けた感情、そして諫山自身が現実社会で感じている“外の世界”から目を逸らしている同世代の若者、そんな時代をつくった上の世代からの抑圧に対しての、“必死の抵抗” “自分自身への鼓舞”「奮い立て!」というメッセージが込められていると思えて仕方がない。

 この先の時代、ますます混迷明るい兆しが見えない社会で暮らしていく中で、どのようなコンテンツがでてくるのか? そして、何かしらのターニングポイントでカルチャーにどんな変化が起こるのか?
 色々な想像をしながらも、ゲームや映画、アニメに夢中になっているわけだが、私の現実は果たして逃避行動なのかどうか? 実は自分でも良くわからない癖に分析をしてみた次第だ。

(終)


 


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