世界の上澄みを憧憬し、泥土で顔を洗おう

最近色恋を描く映画やアニメの純情さや無垢さに触れると痛みを感じる。もちろん痛覚としての痛みではない。胸を締め付けられるような痛みだ。それはときめきともまた違う。どちらかというと、痛い、というのは、あいつイタイ奴だな、の痛いだ。痛々しいのは他人のはずなのに、自分の心も痛くなるのだから不思議だ。ポエムツイートを見たときに何故か見ているこっちが恥ずかしくなるそれに似ている。何も馬鹿にしているのではない。心をえぐってくるから痛い、ただそれだけの事なのだ。けれども、いつからそれを痛々しいと思うようになったのか。僕はそれが疑問だ。少なくとも、大学低学年の自分は純情さに深く心酔してしまって、悲劇的な物語を眺めてしまった暁には2週間程立ち直れなくなるような人間だった。リアルな世界の境界が曖昧になるほど物語の心理描写に没入してしまう繊細な感性。自分で言うのもおこがましいけれど、そういう物を大切に愛でていた時期もあった。多分、誰にだってそういう時期はある。

僕がそうなったきっかけは、きっと読書の影響は強い。特にサリンジャーとカフカは僕の世界の見方を変えた。イノセンスと不条理という対局的なものを垣間見てしまったのだ。こういうものは、一度見てしまったらもう見なかったことには出来ない。過去が変えられないのと同じように、一度作り上げられた認識の在り方は、忘れようと思っても忘れられないのだ。世の中には確かに、そういう物が存在する。

世界は不条理だ。まるでカフカだ。全くどうしようも無いくらい、世相にはよく分からぬ力場がある。不条理な力場だ。それは、空気を読むとか、忖度だとか、そういった欺瞞を強要させられる同調圧力のようなものの中にある数々の滑稽さとでも言うべきだろうか。時々、皆が狡猾を演じる道化に見えて仕方ない時がある。だからこそ、その対岸にあるイノセンスに惹かれる。そういった感情が自分の中に芽生えているのを見つける。それはまるで何かの道導のようで、よく分からぬ力場の中を歩く僕の唯一の足となってくれたのだ。それは必ずしも心理的なものだった訳ではない。例えばそれは論理だったりもするのだ。僕はその明快さ、荒波の中をどこまでも歩み行く事が出来そうな力強さ、そういう物に惹かれた。誰の為でもない、不純物が沈殿した後の、世界の上澄みのような澄み切った物に憧れていたのだ。

でも、きっともうそういう感性は僕の中で終わったのかもしれない。具体的に何が原因かと問われると分からない。それは一時的な物かもしれない。何故なら僕は、未だに無垢なものが存在すると思っているからだ。全く馬鹿馬鹿しいとは思うし、笑って貰って構わない。そしてその一方で世界の不条理に絶望する。しかし前と異なるところは、その両方を愛でているということだ。清濁併せ持つという言葉が存在するが、今がその時ではないだろうか。今まで飲み込めたなった濁りを、飲み込む時が来たのだ。でも僕は、不条理に身を任せ皮肉的になる事が大人になることで、無垢に身を任せ破滅的になることが子供の成すことだなんて、そんな一方の場所にいる人間がするような陳腐なポジショントークはしないだろう。僕はどちらも同じように憎んでいるし、どちらも同じように嫌いじゃない。これはきっと精神の脱皮じゃない。いわゆる、何かを捨てる事による成長ではない。希望を抱きながらも同時に絶望を抱く弁証法的統一だ。

青春を捨て心の老いを徒らに待つ事でもなく、泥土で身を洗いたくないと喚く訳でもなく、僕の中で醸造されていく何かを今日は感じ取った。そんな痛みだった。