夏に狩られた僕は

 街を歩いていると、すれ違った人に左手の手首を掴まれた。
反射的に振り返ると目の前にいたのは君だった。
僕はなぜか驚くことはなく、君に握られたままの自分の左手を見ながら、そこにいくつかの神経を注いだ。
柔らかくて少し冷たい感触だった。
 君は僕の姿を上から下まで一通り見終えると少し笑って「随分髪が伸びたね」と言った。
「君は笑顔が少しビジネスライクになったみたいだね」と僕は答えた。
その言葉は前もって内ポケットに入れて用意していたかのようにすんなりと出てきた言葉だった。
 すると、君はさっきよりも笑って「このセリフって普通逆じゃない?」と言った。
その通りだな、と僕は思った。
本来なら僕が社会における大人達の無神経な言動に精神をすり減らしていなければならないのだ。
僕はただ醜く髪を伸ばしてそれらと目が合わないように下を向いて歩いていたのだ。

 車のクラクションの音で僕の視点は横断歩道で信号が変わるのを待つ風景に移る。
 それは僕の本来の視点だった。
太陽は承認欲求に貪欲な女のように暑さを我々に見せつけていた。
僕は大きくため息を吐き、視線を落とすと左手には見覚えのないものが握られていた。
それは僕が半年前に夜間金庫に押し込んでおいたはずのミックス・テープだった。
いつだったか君にあげたものだ。
僕はその情けないミックス・テープにイヤホンを接続して再生ボタンを押した。
流れてくる曲は素晴らしいものだった。
だがもうそこにそれまで感じていたような輝きはなかった。
僕が僕自身の手でそれを曇らせてしまったのだ。
「何かを変えられる」と私怨に酷似した過剰な期待を押し付けたばかりに・・・
分かち合うことに飢えてしまったばかりに・・・!

 ミックス・テープを止めようとした瞬間、君がさっき握っていた(であろう)箇所が急速に熱を帯び始め、やがてそれは強い力になって僕を前に引っ張った。
僕は何かを掴むために手を伸ばしたような体勢で横断歩道を勢いよく飛び出した。
握っていたはずのミックス・テープはもう手の中にはなかった。
 右を見ると黒い車がスピードを上げて僕に近づいてくる。
窓も黒く塗り潰されていて、誰が運転しているのかは分からない。
車は太陽の光をとりこぼすことなく乱反射させ、そのうちの一つが僕の目を射抜いた。
 僕は闇の中で手を伸ばしているような感覚に陥った。
だが何も掴めないことは分かっていた。
指先に何かが触れることもないだろう。
僕が求めているものはこの横断歩道を渡った遥か先にあって、なんとか追いつき、呼び止めることが出来たとしても、もう手にすることが出来ないものなのだ。
たとえ毒婦が差し出す甘ったるいイミテーションであったとしても僕が触れることは許されない。

目を閉じたことで拵えられたスクリーンは、僕にいくつかの映像を見せる。
奇数のそばを指差すしなやかな手。
赤い霧、透けた足許。
ハミングするゴースト、ラララララ・・・。

夏に狩られた僕はそれを「餞別」として受けとった。
あるいはそれは「選別」だったのかもしれない。