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集治監から明治をたどる

 昨日の記事に書いた漫画作品の一つは『王道の狗(安彦良和作)』というもので、この物語のはじまりが北海道中央道路建設などの、北海道開拓のシーンからだった。
 北海道の主要幹線道路、樺戸かばと集治監、といったら以前読んだもののなかにあったような記憶が浮かんで、手持ちの本を漁った。
 それは『河童が覗いたニッポン(妹尾河童)』という本に収められた、「集治監」という題の取材文章だった。そこでその北海道の主要幹線道路が囚人道路などと呼ばれている、というのを読んだことがあって、でもやはり詳細を忘れていたのでまた本を開いてみた。
 ここからはこの本と、樺戸集治監のあった月形つきがた町公式サイトなどをなぞって書かせてもらう。(妹尾河童氏の「集治監」の取材は1978年)

 北海道においては、明治14(1881)年から24年にかけて5つの集治監が建設されており、月形町というところにつくられた樺戸集治監がその最初のものだった。10年という短い期間に集中して5つも作られた背景には、明治新政府への批判や抗議闘争が各地で起こったことによって、逮捕者が急増したことがあげられる。そこに、アイヌの人々から奪った土地の新規開拓事業のため、その地に人的資源を投入するという案が重なった。
 伊藤博文より「北海道に集治監を創設せよ」という命を受けた月形潔がいくつかの候補地を調査し、選別したのが月形町で、もとは須部都スペツプトという土地であった。アイヌ語で「スペツ」は<本流>、「プト」は<合流>という意味をもち、石狩川と須部都川の合流地点であることに由来していた。
 福岡藩士、月形潔は初代典獄(現在でいう刑務所長)に就任し、彼の姓をとってこの土地は月形町と名付けられた。

 『王道の狗』を駆け足に読み終えて、なおまだ頭に入っていない部分もあるけれど、こうやってある一つの点(この場合北海道の集治監)にスポットをあてその周辺のことをみていくだけでも、少しずつつながってくるところや、見渡せる部分がある。
 集治監のことをもう少し続けてみてみよう。

 この月形村周辺というのは、低湿地帯が多く深い霧に包まれ数十日間ほども太陽が見えない場合さえある原野であった。さらに11月という早い時期から冬が訪れ雪が降り、2メートル近い積雪に見舞われる。春になって雪どけとなると、石狩川が増水し周辺の地域をのみこみながら流れる有様であったそうだ。
 その一帯には原生林が生い茂り、人間の住める場所ではなく、アイヌの人たちでさえ狩猟や漁といった目的以外には足を踏み入れない土地であったという。
 そんな土地を月形潔が選んだ理由をざっと書くと、「平坦な原野で地味が肥え、開墾し農地とするのに適している」「石狩川を水路として利用できる」「川と密林地帯の山に挟まれ、人里から遠いため囚人の逃亡を防ぐ地の利を得ている」の3つで、それは間違ってはいなかった。
 間違ってはいなかったけれど、その地を「農地に適している」状態に至らしめるまでに、囚人たちに課された労役は凄まじかった。
 そこでは体制批判行動や凶悪犯罪を犯したものに対する、厳罰主義に徹底支配されていた。当時の監獄則には「獄とは罪人を禁鎖してこれを懲戒せしむる所なり。獄は人を仁愛する所にして、人を残虐するものに非ず。人を懲戒する所にして、人を痛苦するものに非ず」と書いてあったというが、この法に明記された根本精神が守られていなかったこととなる。
 このように法の中身と実際がなぜ合致していなかったのかというと、このころの明治政府は、諸外国に近代国家として認めてもらうためにのみ注力していたからである。
 不平等条約をどうにか破棄したかったし、鹿鳴館での舞踏会をやってみたり、欧米に準じてつくられた監獄則といったものもそのうちの一側面だった。そのころの日本の意識上には薄かった人権思想を、形だけ欧米から借りてきてつくられたのがその監獄則というわけで、それは人権を保護するためでなく、欧米に向けた広告的活動の一つというのが実情といったものだった。

 こういうところ、当時は急務というので見落とされていたのだろうけれど、結局は文化が成り立ってくるうえで背景にどういった宗教を持っているかなどといったあたりが根本的に違い、また理解が及んでいなかったために、容易に取り入れられるものではなかったのだろう。

 江戸時代からの罪人に対する考え方を持ち越したまま明治を迎え、反政府行動である佐賀の乱(明治7年)、神風連の乱・秋月の乱・萩の乱(明治9年)、西南の役(明治10年)などが起こり、加えて明治17年以後には各地で自由民権運動が起こった。秩父、名古屋、加波山、静岡といった各事件での逮捕者が大量に集治監に送り込まれたことが、当時の収監者名簿にみられるという。
 樺戸集治監建設の1年後、そこ(月形)から20kmほどの地点に空知そらち集治監がつくられた。そこでは幌内炭鉱における採炭作業のため囚人たちが就労させられるが、そこでの労役の悲惨さもただごとではなかった。
 日に日に深くなる坑道ではガス爆発が多く、採炭を妨げられるために、可燃ガスの有無を予知する必要があった。そこでガスの発生が懸念された場合には、網で縛った囚人を吊り下ろして調べるという方法がとられた。吊り下した囚人が動かなくなればガスがあると判断され、別の換気孔が穿たれた。この空知集治監では約10年の間に941名が死亡したという。
 そして『王道の狗』にも出てきた標茶しべちゃの釧路集治監。ここは跡佐登あとさぬぷり硫黄鉱山での採掘をさせる労働力供給源となる。明治18年の開設からわずか半年で300名中の約半数が罹病、42名が死亡している。栄養失調に加えて硫黄の粉や亜硫酸ガスによる失明者が相次いだ。
 この硫黄鉱山は民間経営であり、安田財閥の安田善次郎のものだった。そのことはこの本にも漫画作品にも書かれているが、Wikipediaなんかで安田財閥のページを見てもこのあたりの記述は見つけられない(標茶町役場のサイトには安田の前経営者が「囚人を借りて」との記載がある)。経費のかからない労働力というわけで、囚人を徹底的に酷使した。
 安田財閥だけでなく、当時はあらゆるところにこの後日本を動かす財界人の名がみられ、彼らは政府と結びつき着々と財を成していくのだがその影はその成した財の分だけ濃くなって、こういった過去を見えづらくする。
 その暗い影は、長州の伊藤博文、薩摩の黒田清隆らの政権にもみられ、こちら側では政府内部の厳しい権力闘争が繰り広げられていく。

 明治18年以降には伊藤博文が北海道行政組織改革に入る。巡視団のなかに金子堅太郎という人物がいた。彼は明治4年に渡米、ハーバード大学で法律学を学んだことから、アメリカで採用されている労役活用を北海道開発に活かすべきであるとの主張をもりこんだ、政府宛の復命書を担当した。
 しかし、ここでも、その思想がすかすかであった日本は「労役」の意味を取り違えていた。アメリカにおける受刑者の労働は、金子堅太郎が渡米する70年ほども以前から「監獄は人間を罰するためのものではなく立ち直らせるための施設である」という、クエーカー教徒による提唱が実った結果であった。アメリカではその後もそれに影響を受けた各地で人権を尊重する刑務所が出来ていき、監獄というものの考え方に変化が起こったが、それは金子堅太郎渡米の何十年も前だったから、彼はそれを知ったうえで無視して取り入れたか、見落としてきたかのどちらかだったことになる。
 金子堅太郎は法律専門家の権威ある意見として政府に進言をするが、それは恐るべき内容だった。
 それというのは、囚徒は暴戻の悪徒であり、苦役に耐えられず斃死しても一般工夫の場合とは違い、また重罪人が増加し支出が増加しているから、必要な工事に使いもし斃れ死んだとしたら支出は少なくなり、つまりやむを得ないのだ、とざっと書くとこのようなことだった。
 これを受け取った山県有朋は喜んだ。伊藤博文も満足し、三条実美が同調した。かくして「囚人の労役によって北海道に主要幹線道路を開通させる案」は正式に政府の政策として発令されるに至った。

 最初の道路となったのは峰延みねのぶ道路、他の地区での開削にも苦しみが伴ったものだったが、特に旭川から網走を結ぶ中央道路は、計画から8か月間で山岳部を含む170kmに及ぶ大工事を完了させるというもので、膨大な犠牲者を出した。
 死亡者162名、逃亡を企て殺害されたもの3名、重労働を苦にした自殺者1名、その他病気になり倒れたもの述べ1916名という記録が残っている。開通までの期間、病死者数は驚異的な記録となり、「死の囚人道路」といわれた。国道39号線である。

 この文章の最後は、集治監は過ぎ去った明治時代のものではないと、監獄法に触れるところで締めくくられている。この文章が書かれた1978年当時には、明治41年に制定された監獄法が、人権を無視していると問題視されていたにも関わらず依然として原型をとどめていたからで、そういうことも知らなかった私はキーボードをぱたぱたと叩いた。
 するとこの監獄法の法改正が進められ、成立を経て改正されたのは平成18(2006)年だとあった。

 もっと細かいところを気にしていくと色々出てくるのだけれど、まだ頭も追いついていないし言葉もない。こういったことをこれまで知らず、また知ろうとしなかった自分が情けないく、恥入りつつ書いた。

 もういっぺん漫画を読み返し、頭のなかにいっぱいある空白を埋めていきたいとおもう。

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↑月形歴史物語

↑標茶町

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