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「自信」とはなにか、またの名を『わたしは最悪。』感想文part2

11月1日。
ギンレイホールで3回目の
『わたしは最悪。』を観てきた。

仙台での上映が終わるときにも
もう一度ユリヤに会いたくて
迷わず2回目に足を運んだけれど、
スクリーンで再び観られるなんて。
しかも今月末で閉館することが決まっている
ギンレイホールで。

推しのスケジュールが
そのまま自身のスケジュールとなる
仙台住まいのわたしにとっては、
本当に最高のタイミングすぎました。
教えてくれたフォロワーさん
何度でも言うけど、ありがとう( ; _ ; )♡


そんなこんなで、
前日に急遽取り決めて2ヶ月半ぶり
3回目となる『わたしは最悪。』が
やっぱり数ヶ月経っても大好きだったので
再び話させてください、ということで。
(※ 以下ネタバレを含みます)

ストーリーはもちろん、
劇中交わされる言葉たちも
印象的なものは全然覚えてるのに
3回観て3回泣いてるシーンがあって。

僕に後悔があるとすれば
それは君に自信を持たせてやれなかったこと
第11章「陽性」より

というアクセルの言葉。

アクセルがすい臓癌を患っている
と聞いてお見舞いに行くユリヤ、再会する二人。
散歩をしながら、
過去のことや今考えていることを話すうち
ユリヤは今の彼アイヴィンとの
子を妊娠していることを告げる。

「君はいい母親になる」
それはかつて二人が恋人だったとき
子どもを欲しがったアクセルが
今は子どものことはまだ考えられない
と消極的なユリヤに対してかけた言葉だった。

その言葉を、
今、もう一度言ってほしい、というユリヤ。
望んだ言葉をもらっても、
そうよね!いいママになるわ!
とは当然いかない。
だって、
ユリヤはすぐ新しいものに目移りするから。
今も今の自分に納得できているか
自分でもわからないでいるから。

30にもなって、
「すぐ新しいものに目移りする」
などと言っているユリヤは
ある種幼いとも言えるのかもしれない。
けれど、わたしには言えない。

いろんなものがおもしろそうで、
いろんなことに関心があって、
なんでもできる気がしてできなくて、
そういうユリヤの姿に
すごくすごく心当たりがあるから。
女性初の総理大臣も、
NASAに就職して宇宙飛行士も、
一時は本気で考えていたわたしだから。

医学生だって、心理学だって、
写真だって、執筆だって、
その気になればいつだってやめられた。
辞めてきた。
けれど、子どもばかりはそうはいかないことを
ユリヤはわかっているから、自信が持てない。
彼女の「自信がない」は
すごく責任感のある言葉だ。

それに対するアクセルの冒頭の言葉。
「僕に後悔があるとすれば、
それは君に自信を持たせてやれなかったこと」

アクセルのせいじゃない。
そんなの当たり前だ。
そもそもアクセルの子ですらないし、
未だ母親になる決心ができないのは
言うまでもなく、ユリヤ自身の問題だ。

なのに、ここのアクセルの言葉には
毎回、あぁ…と思ってしまう。

自信、自信、自信。
自信がある、自信がない。
自信を持つ、自信を持たせる。

ああ、自信を持たせる、って
つまるところの愛なのかもしれない。

アクセルが愛してくれたから
アクセルが自信を持たせてくれたから
母親になる決心ができるわけじゃない、
いい母親になると思えるわけじゃない。

けれど、「わたしなら大丈夫」
そう思えるだけの「自信」には
自分を認めてくれる存在、肯定してくれる存在、
「わたしなら大丈夫」と思えるほどに
「君なら大丈夫」と思ってくれる存在、
が必要なのかもしれない。

全員がそうとは言わないけれど、
ユリヤやわたしみたいなタイプには。

それはもちろん、
わたしってば何やっても完璧!
わたしったら何やらせても天才!
そう思える、自信を自己生産できる
に越したことはないのだろうが、
それならそもそも30まで
自分が人生を賭ける道が定まらず
ふらふらふわふわしている
なんてことにはならないはずなので、

せめて、自信を自己生産できないタイプの
ユリヤみたいな人間には自信が育つ上での
支柱のような存在、それが愛なのかもしれない。
だから、アクセルは
自信を持たせてやれなかったこと、
すなわち、彼の思うようには
ユリヤを愛しきれなかったことを
悔いるのかもしれない。

昨日の17時頃に映画を観終えてから、
頭のどこかでずっと考えてようやく
なんとなく、これかも、
と思えるところに行き着いた気がした。

まあ、アクセルが
というか監督・脚本のヨアキム・トリアーが
どう考えていたかは知らないけども。
彼のセリフの真意は
いち観客であるわたしにはわからない。

けれど、3回観て3回そこで泣いたのは
ほかの誰でもない、わたしだ。
だから、どうしてその言葉が
わたしに刺さってしまったのか、
どうして三度ともわたしの涙腺を
刺激することになったのか、の解は
わかった、と言っていいと思う。

映画や物語を愛する理由の一つに、
摂取している時間だけでなく
その後もシーンを、言葉を、感情を反芻して、
自分の考えや意思に気づくことができるから
というのが間違いなく、ある。

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