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わたしと、『母性』と、わたしの母性。

湊かなえさんの『母性』を初めて読んだのは
2年前の12月。わたしは25歳で、娘は3歳。
離婚を機に二人での生活を初めて
1年ちょっとが経った頃だった。

2020年12月

当時、娘が保育園に行っている時間
=わたしの勤務時間、で
仕事のために保育園を利用しているのだから
至極当たり前のことなのだけれど、
その当たり前は、同時に
わたしには「仕事」「家事」「育児」の
どれかに属する時間しか存在しない
ということでもあった。

それでも、性格の合わない大人と暮らし、
合わないものを無理に擦り合わせて
娘を育てていたことに比べたら
格段に自由でストレスフリーなのだけど、
メモ片手の買い出しではなく
のらりくらりとショッピングをする時間、
ソファに座ってSNSをする時間、
趣味の本や映画を楽しむ時間、
サロンで自分を大事に扱ってあげる時間、
「飽きた」と騒がれずに数少ない友人と
長話を楽しむ時間も、欲しかった。

これらの贅沢な時間は、
その頃のわたしにとって
完全に元夫の都合で決まる面会の日のほかには
保育園に仕事と嘘をつくか
実家の母に預かっててもらうことでしか
手に入らなかった。

娘と二人の生活がつらいわけじゃない。
それでもわたしは、
元夫や母の予定に従うようにして手に入れた
束の間の時間を心待ちにした。

たった一人の娘なのに、
娘の手が離れる時間を心待ちにしている
自分は、母性が欠けているのでは、
母親に向いていないのでは、
こんな母では娘が可哀想なのでは、
親になるべきではなかったのでは
と、いつもうっすらと思っていた。

一人で家事と育児と仕事をするわたしに
そんな言葉をかける人はいなかった。
「がんばってるね」と、「すごいね」と、
「無理しないでね」と、言ってくれた。

でも、他の誰でもないわたしは
いつも自分に母性が足りないのでは
と思っていた。
自分がそう思っていると、人の言葉も
まっすぐ受け取れなくなることを知った。

だからわたしは救われた。
『母性』の中の、この言葉に。

自分が求めたものを
我が子に捧げたいと思う気持ちが、
母性なのではないだろうか。
母性      / 湊かなえ

それなら、わたしにもあると思えた。

わたしは娘になってほしい職業もないし、
なんとなく長生きしない気がするから
娘の結婚も孫も、なにも希望しない。

ただ、
しなくていい後悔はしないで済むよう、
一つひとつの選択に、できるだけ多くの
選択肢を持っていてほしい。
勉強でも、仕事でも、恋愛でも、
その選択肢をわたしの手で減らさないこと
一つでも多くしてあげること、
それが料理や掃除よりも大事な
親の役目だと思っている。

それで、十分だと思えた。
わたしでも、十分だと思えた。

こういうことって、
当事者である“母”という立場に今この瞬間
現役でいる人からは、言いづらい。
言い訳のように聞こえるだろう
と思ってしまうから。

だから、一人でも多くの人が
この『母性』という小説を、
いや、この一文だけでも読んでほしい
知ってくれたらいい、と思った。

2022年9月

映画化されると聞いて、
公開までには読み返しておきたい
と思っていた『母性』を再読。

この2年間、
結婚・出産への焦りも願望もなく
20代後半を過ごしたわたしは
我が道をゆく方向で思考を深めすぎたのか、
初読時にはまったく印象に残っていなかった
間室温子さんの解説が響いた。

長いこと家父長制とか男尊女卑とか、
「父親上等」であった日本だが、
分数は「分父」ではなく、国は「父国」ではない。
表立って男たちが力を振るってきた長い社会が、
「母」に期待し、甘え、後始末を押しつけてきたものは、
とてつもなく大きいのだ。
『母性』解説 / 間室温子

そんな一進したのか一退したのかは不明だが
とにかく2年の月日を経たわたしは、
一度目に+αの感想を抱いた。

「母性」とは、
“こう”という形があるものではなく、
母親という立場の人間一人ひとりが
それぞれ違う子を育てる中で
その親子の間に育っていくもの
なのではないか、と。

ツイッタラーのつぶやき(雑談)

言葉は、強い。
A=Bとしてしまう、強い力が言葉にはある。
そう感じることがこの夏にあった。

わたしは生粋のツイッタラーなのだが、
今年の夏とある人物がした
「辺野古の座り込み」
に関するツイートが話題になった。
ツイッタラーでない人でも
さすがに知っているのではないか。

彼のツイートは置いておくとして、
その顛末の中で
「辞書にはなんて書いてあるんだ」
という言葉が飛び交い、
ツイッタラーのわたしは辞書の制作に
携わられている方のツイートを目にした。

そのツイートには、
・言葉は絶対的なものではないこと
・人々の生活や慣習が先にあって
 それに則して生まれるものであること
という趣旨のことが書いてあった。

辞書という、
わたしたちが物心がついた頃から
「正解が書いてあるもの」と
思ってしまってきたものを
作る側の人のこの言葉に
一部、批判の声も見受けられたが、
わたしは「そうだよな〜」
と、ぼんやり思ったのを覚えている。

たとえば「エモい」という言葉は、誰かが
「今日から、なんとなく懐かしいかんじがして
蘇る記憶があったりなんかして
エモーショナルな気分になるものを
形容することをエモいって言うことにします」
と決めて、みんなが使い始めたわけじゃない。
ただなんとなくみんなが
そういうときに使いようになったから
生まれて、辞書は
その言葉を知らない人のために考えられた
説明が書かれたもの、に過ぎないのだ。

本題に戻ろう

話がすこし遠くにいってしまったけれど、
つまるところ、わたしたちは
「言葉」を絶対的なものとして
過信してしまっているのではないか。

だから、「〜とは」という、
「母性とは」という、文章が出てくるのだ。

「母性とは、こう(Xとする)」という
「母性=X」があって、
Xを持つ女と、Xを持たない女がいるのではない。

あなたの我が子への思いと、
わたしの我が子への思いがあって、
それらの思いの、どちらもがXなのだ。

そう考えるとするならば、
わたしには母性が欠けているかどうか、も
「自分が求めたものを我が子に捧げたい
と思う気持ちが、母性」だとするならば
わたしは母性を持っているはずだ、とも
思う必要はないのではないか。

今、わたしは、
5歳8ヶ月になった娘を育てながら
「わたしの母性」を育んでいきたい
と思う。娘と。

2022年11月

待望の、映画『母性』が公開された。

大きな声では言えないが、
これを11/23つまり祝日に公開するの、センスない。
母親が最も映画なんか行けない日だ。
まあ、最初に原作を読んだときのわたしと同じく
母親でない人にこそ観てほしい、
そんな思いがあったのだと思うことにする。

母親であるわたしは公開日に行けないので
翌週にようやく時間を作って劇場へ向かう。
並並ならぬ、『母性』への思いを
「母性」に対する考えを胸に抱いて向かう。

そして115分を経て、シアターを出たあと
スマホを片手に第一声が出てこず、
とりあえずインスタを立ち上げ
ストーリーズに「思うことがありすぎた」
と、エレベーターの中で投稿した。

思うことがたくさんあった。
たくさんの「さすが」と、大きな絶望。

たくさんの「さすが」

数え切れないほどの「さすが」はすべて
あの『母性』の世界の中に生きていた
俳優さんたちに。

一人で観ていたのに思わず笑ったし
これは笑わせにきてるでしょうと思った、
一生姑芸で食っていけるであろう高畑淳子さん。

まったく違和感なく
ああ、実際いたらこんなかんじかも…
と思わせる中村ゆりさん、山下リオさん。

清佳の幼少期を演じた
落井実結子さんもすごくよかった。
あんなにも「おばあさま」呼びが似合う
賢そうな子がいるのか。

永野芽郁さん。
「無理して笑う」演技が
こんなにも上手だったのかと感動した。
個人的に、「無理して笑う」演技が上手い大賞の
王者は松岡茉優さんと思ってるのだけど、
松岡茉優さんは彼女部門、
永野芽郁さんは娘部門で同率一位だと
認識を改めた。
外の水道で手を洗うシーン、唯一泣いた。

戸田恵梨香さん。
偶然、映画の直前にご懐妊のニュースを見て
この日観に来られたことを幸福に思った。
おめでたい。
大地真央さん演じる母親との
歪とも言えるほどのべたべた具合、
自分が「出来る」人間であるが故の
「出来ない」人への想像力が微塵も及ばない
無知で無垢に、ぱっちりと見開かれる目。
ぴったりだと思った。
とくに、お弁当のシーンをはじめとする
信じられない、というような目で
まだ幼い娘を見る演技。こわかった
彼女がではなくて、演技がではなくて、
わたしは日頃
こういう目をしていないだろうか、と。
していない、という
わたしの自信の持てなさが怖かった。

そして大地真央さん。
わたしは、小説を映画化する際に大事なのは
忠実かどうかなんかよりも
小説を超える「瞬間」があるかだと思う。
予算や尺の関係で
何かしらのくだりや要素をカットするのは
致し方ないことだと思うし、
仮にカットせず忠実になぞったとしても
それならば小説を読んでいたら
わざわざ2時間割いて映画を観る意味はなく、
だからその「瞬間」が欲しい、と思う。
回想の中での大地真央さんのラスト、
あの瞬間わたしは
この人はどんな母親に育てられたのだろう
彼女の母親に会ってみたい、と思った。
原作を読んでいたときには
とくに湧いてこなかった感情だった。
改編関係なく、原作を超えた瞬間だった。

大きな絶望

一方で残された、大きな絶望。

これはもう、わたしの原作への理解が
湊かなえさんの思惑と異なるか、
あるいは、湊かなえさんの
「きちんと汲み取った内容の脚本だったので、
ぜひお願いしたいと思いました。」
というコメントが、ある種妥協の含まれた
言葉だったのか…。
いろんな人のために、前者だと思うことにする

俳優陣の演技も、セットも、
原作からの省略の仕方も素晴らしいのに、
わたしにはどうしてもこの映画が
「とある仲良し過ぎた母と娘、
ずっと娘でいたかった女が母になったときと、
その影響を被った、不幸だけれど
その過去を乗り越えてゆく娘の話」に思えた。

そもそも映画化云々の前から、
湊かなえさんは『母性』に対して
「これが書けたら、作家を辞めてもいい。
その思いを込めて書き上げました。」
と言っている。

この言葉に含まれた
「これ」「その思い」とは、
とある三世代の女たち、のことでは
なかったと、わたしは思う。

この映画だけ観ていると、
母性が足りない女
=ずっと娘でいたい女
=ずっと娘でいたい女以外の女は
 母になれる即ち母性がある
という風に見えてしまうのだ。

戸田恵梨香さん演じるルミ子は、
ずっと娘でいたい女だったから
母性がなく母に向いていませんでした
チャンチャン
と終わってしまうのではないか。

前述のように、わたしは今は
母性は「母性とは」という答えのあるもの
ではないと思っているけれど、
大多数の人間が、
「母性」という決まった概念があって
それを母親であれば、母親になりうる女なら
誰もが持っているはず、と思っている
この社会で、世間で、
“私には母性が欠けているのでは”
“母親に向いていないのでは”
と思ってしまっている女性たちが、
全員ルミ子のように「娘でいたかった女」
だと、わたしには思えない。

前に引用している文章に加えて
わたしが好きだった原作の一節。

時は流れる。流れるからこそ、
母への思いも変化する。
母性 /  湊かなえ

この2つは映画には出てこなくて、
ラストメッセージとして
「この世には2種類の女がいる。それは、母と娘。」
という言葉が印象的に口にされる。

これには、わたしは異を唱えたい。
正解を唱えている自信はないけれど、
この社会で母親という役割を担っていて
自信を失いかけていて
かといって娘でいたかったわけでもない、
そんな、必ずこの社会のどこかに
少なくない数いる人たちのために。
正解ではないかもしれないけれど、
異を唱えたい。

わたしは、母でも娘でもなくわたし。
あなたは、母でも娘でもなくあなただ。
だから、大丈夫。

わたしは料理は下手・掃除洗濯は嫌いだし、
結婚生活すら継続できないし、
母になっても推し活なんかをしていて、
全然偉そうなことを言える立場じゃない。
母親業に向いているとも思えない。

でも、やるしかないから。
やっていれば、娘と
“わたしたちの母性”を育むことが
できるような気がしてるから。

あなたも、あなたのお子さんとの
母性をゆっくり育んでいけることを
わたしは願う。


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