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ちょっとずつ生まれ直してる


ふと借りた雑誌で文章を読み、気になっていた写真家の人の本を図書館が他市借用してくれました。ありがたいです。

『異なり記念日』齋藤陽道

耳の聞こえない写真家夫婦の間に生まれた、耳の聞こえる子どもとの日々の記録。

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まだ夫婦だけだった頃。深夜のビデオショップまでの道のりで、すぐ後ろを走っていた妻のまなみさんが大怪我をしたのに気づけなかった話。

子どもの樹さんが生まれてからの海外旅行で、宿泊先のベッドから樹さんが落ちたことに気づけなかった話。

すぐそばで起きている、いとおしい存在の危機に気づけなかった、生命に関わる音に気づけなかったという「聞こえない」ことの怖さ、俯瞰して「聞こえない」という冷たい事実と著者はあらためて向き合っています。

一読者の私は、聞こえるのによく聞いていなかったり、聞こえるのに聞こえないふりをずいぶんしてきたなぁと反省しきりです。その行動で息子の命が危なくなるようなことはなかったけど、心はどうかな、小さく傷つけたかもしれないと振り返ります。

別の一日。

意味があるとされる「言葉」。
まなざしや身振り、一瞬の表情や震えなど、言葉には表れない「ことば」。

著者は、視力も聴力も未発達な赤ちゃんが世界を認識するためにハムハム(何でも口に入れてしまうこと)をしているなら、「ことば」を口で知るための行動だと考えると、問答無用で怒ったり、取り上げたりできなくなったそうです。

ハムハムを禁止する代わりに「くださいな」と言って一緒にハムハムするようにしたそうで、とてもいいな、私も「ダメだよー」の代わりにしたかったなと思いました。使用済みのオムツや土を一緒にハムハムするのは、かなり覚悟が要りそうなのでひたすら頭が下がります。

また別の日。

店内のBGMが嬉しくて、おとーさんに伝えたけど、おとーさんは音楽がわからない。「いつきさん」「おとーさん」「おかーさん」はみんな違う、違うことは嬉しい、楽しいと、子どもの樹さんにぼくらは異なる存在だと告げた話。

深夜に盲者のおじいさんをOLさんに仲介に入ってもらって、無事に家まで送れた話。

「異なることがうれしい」ということもありうるのだと知ったときだった。自分とはまったく切り離されているかに思えた、異なるふたつの世界がそれでも関わり合ったときの思い出には、いびつながらも奇妙な感動が残る。そんな、苦くて甘い「異なり」を強く感じることができた日のことを、ぼくは「異なり記念日」と呼んでいる。
社会的なマイノリティとして常時感じずにはいられない、冷たい「異なり」に対して、ただ悲観や怒りに明け暮れるばかりでなく、それでもーー無類の喜びがどこかにあるはずだと信じてーー「異なることがうれしい」と、まずはそう言い切ってしまってから物事を始めようと思っている、ぼくは。


聴者である私はろう者の人の日々をこのように本で読み、「異なり」を知ることができたのがただ単に嬉しいです。目や耳に頼りきっている私は、もっと触覚や別の感覚も研ぎ澄ませてみたいと思い始めています。

あとがきに、「どんな声だったんだろう」と、いつまでも想い続けることのできる美しい謎として樹さんの産声に触れています。

今、書きながらヒヨドリをはじめ様々な鳥の鳴き声が飛び交っています。うるさいな、ではなく贅沢だな、豊かだなに変えてみよう。「異なり」たちには「異なり」たちの時間や活動があるものね。私も日々ちょっとずつ生まれ直したい。





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