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「信仰」を持たない人間は絶対に存在しない。─読書感想文:村田沙耶香『信仰』

はじめに

読み終えた本の感想は読書メーターの呟きにリプライでぶら下げる形で書いているのですが、村田沙耶香氏の小説はどれも面白くTwitterの文字数制限では収まらないのでnoteに記載します。

特にネタバレとか気にせずに作中の描写で触れたい文章を書いていますので、未読の方はその辺をご承知おきください。

その他の読書感想文note

※3200文字くらい

本編

「なあ、永岡、俺と、新しくカルト始めない?」から始まる物語だ。村田沙耶香氏の小説の魅力は冒頭の一文のインパクトにある。本作もこれがいかんなく発揮されている。

本作の主人公の永岡は、自身を勧誘してきた石毛を心底バカにする。読者もそれに共感するのだが、永岡が「鼻の穴のホワイトニング」の予約を入れているところで「は?」となる。ここまでで物語開始2ページ目である。物語の設計が完璧すぎるだろ。

「鼻の穴のホワイトニング」というワードの効果は絶大だ。「あ、この小説はみんながそれぞれ抱く””信仰””を皮肉ったやつなんだな。こいつらバカだな~って神の目線で観測してやろう」と読者に安心感を与えてくれる。

しかし読み進めていくと永岡の友達はみんな美容や食器など、なにかしらを信仰─ブランド価値を見出しているという方が近いだろうか─している。現実でもありふれたものだ。ウン十万円のお皿にウン万円の化粧水、よくある話だと思う。

これによって作中の登場人物を天上から見下していた我々を「おれたち・私たちも似たようなことしてるじゃん…」と谷底へ突き落としてくれる(そして自分が信仰しているものはなんだったのかを振り返るのではないだろうか)。

対して永岡は友達に「お前が1万円で買った化粧水、私が400円で買った化粧水と成分同じじゃん」と叫んだり、彼氏とテーマパークへ行ったときに「このポップコーンがこの値段!?」などと暴れ、距離を置かれていく。

しかし、永岡の意見は(鼻の穴のホワイトニングってなに?はさておき)必ずしも間違っていない。例えば化粧品は広告費が10~20%を占めている。製品の原価も同程度なので、宣言広告に実際にモノを作るのと同じだけの金額が掛けられている。

これは化粧品は「ブランドイメージの確立」に重きを置いているからだ。最近で言えば大谷翔平が広告塔になっている美容液が例として挙げられるだろう。テーマパークでの値段設定については言わずもがなだ。

価格だけを見れば、成分はほぼ同じでも価格は低いものは存在する。それならばこの「正しい」意見が、現代社会では支持が得られにくいのは何故だろうか。理由の一つが作中で提示されているので紹介する。

「そりゃ、ミキが正しいのかもしれないよ。でも、それがなおさら嫌なの。『現実』って、もっと夢みたいなものも含んでいるんじゃないかな。夢とか、幻想とか、そういうものに払うお金がまったくなくなったら、人生の楽しみがまったくなくなっちゃうじゃない?」

31p

つまり、人間はなにかしら特別な対象であるモノに対して通常より高額の金銭を支払うことで「そういうものを買っている自分」に特別さを付与させたい狙いがあるだろう。作中でも下記のように受け取れる描写がある。

「わー、アサミ、これ、ロンババロンティックのお皿じゃない?」
土の色をして、縄のような模様のついた、縄文土器みたいな皿にフルーツを盛ってテーブルに置いたアサミに、ミカが歓声をあげた。
「すごい、やっぱり素敵・・・・・・!このシリーズ、平皿でも50万くらいするよね?」
「わあ、一気に食卓が華やかになるなあ。(中略)」

19p

この場面を読んだとき、ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』のことが頭に浮かんだ。

消費社会論について記載された本だ。本書の概要をwikipediaより引用する(少し長いので読み飛ばしていただいても構いません。そのあとに要約を記載します)。

本書では、大量消費時代における「モノの価値」とは、モノそのものの使用価値、あるいは生産に利用された労働の集約度にあるのではなく、商品に付与された記号にあるとされる。

たとえば、ブランド品が高価であるのは、その商品を生産するのにコストがかかっているからでも、他の商品に比べ特別な機能が有るからでもない。

その商品そのものの持つ特別なコードによるのである。つまり、商品としての価値は、他の商品の持つコードとの差異によって生まれるのである。

(中略)

たとえば、高級車には高級車、コンパクトカーにはコンパクトカーの持つ記号がそれぞれ存在し、それらを自ら個性として消費するのである。

簡潔にまとめれば、つまり人はモノの使用価値を消費しているのではなく、他人との差異を示す記号としてモノを消費している。記号の消費が個性として発揮されるのである。

「そんなのに頼らなくても個性なんて発揮できるのでは?」という意見についての反論ではないが、優れた容姿や類まれなる才能でなければ個人の特性だけで、他社に差異や社会的地位を示すことは難しい。

周囲にお金持ちと思われたいから高級車や高級腕時計を買う。そこまでいかなくても数万円のグラスをさり気なく使用してみる。これらによって人間社会や集団内での個性を発揮している。

人びとは決してモノ自体を(その使用価値において)消費することはない。一理想的な準拠としてとらえられた事故の集団への所属を示すために、あるいはより高い地位の集団をめざして自己の集団から抜けだすために、人々は自分を他社と区別する記号として(もっと広い意味での)モノを常に操作している。

80p

ボードリヤールはそのあと「こうやって差異を発生させて個性を作るのって無限ループだしよくないだろ」云々と書いているのだが割愛する。

なんだかこの記事で何が言いたいのか分からなくなってきたのだが(じゃあ書くなよ)、取り敢えず「信仰」と言うのは差異の表象とでも言えばいいだろうか。また、ここまで記載した理由もある。

それは本書『信仰』に掲載されている短編「カルチャーショック」では、全く異なる世界が描かれているからだ。本作では「均一」という世界が存在する。

この世界には「均一」と「カルチャーショック」の二つしか街がない。僕の住む「均一」はこの街とはぜんぜんちがう。同じ高さの、同じ形の、同じ真っ白な色をしたビルが、まるで絵本で見た水平線みたいに、遠くまでずっと続いている。歯がならんでいるような、真っ白なビルの海。

101p

「信仰」(作品名なので鉤括弧にしています)を読んだ後にこの作品を目にして、おれの中で自己完結だが繋がった。「カルチャーショック」の世界にはボードリヤールが主張したような記号として消費されるモノはなく、差異も存在しない。

均一に住む人々はみな一つの信仰を持っている。信仰が無くなった、あるいは統一された世界も村田沙耶香は書いている。勿論、これはおれの一方的な妄想でしかないのだが。

長々と書きましたが、現代の我々はモノの消費で個性を表象させている限りは一生モノに囚われたままということではないでしょうか。

「信仰」を持たない人間は存在しないと思うよ。

おわりに

引用が多くなってしまいました。取り敢えずジャン・ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』は面白いのでぜひ読んでみてください。

僕が小説を読む楽しみとして、自分が認識していない感情や自分の知らない表現を体験できることがあります。それと同じくらい、小説を読んだ後に自分の頭の中の引き出しからトピックを拾い出して本記事みたいにつなぎ合わせるのが好きです。

少し前の記事で「村田沙耶香の本を全部買う」と書きましたが、馬鹿なので50冊くらいいろんな本を買って積読5000那由他(なゆた)冊くらいに増えているのでまだ買えていません。

最後まで読んで頂きありがとうございました。

以上


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