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【論文】ジャック・ランシエールの芸術史観と現代芸術への寄与

美学会の学会誌『美学』に掲載されていた鈴木亘『ジャック・ランシエールの芸術史観と現代芸術への寄与-『感性的なもののパルタージュ』におけるモダニズム/ポストモダニズム批判の検討を中心に-』(第68巻2号、2017年)。

ジャック・ランシエールの『感性的なもののパルタージュ』を読んだのだが、いまひとつ掴みきれなかったため、別の切り口からアプローチしてみる。

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ランシエールの業績は①西洋美学史・芸術史の読み直し、②同時代の作品批評であるという。①についてランシエールは、18世紀後半の芸術を起点とし、『芸術を芸術として同定する枠組みを「芸術の美的体制」と規定』していた。

『感性的なもののパルタージュ』では、これまで芸術のテクストを現代的な芸術一般の議論へと適用させたことにある。

本論文では、ランシエールが『感性的なもののパルタージュ』で「既存のモダニズム/ポストモダニズム」の批判が展開されているが、これがどのような点で批判されているか論じている。

ランシエールはモダニズムの中心人物としてクレメント・グリーンバーグに言及している。その一方で1970~80年代に誕生したといわれているポストモダニズムについて、鈴木氏は「モダニズムの純粋主義的プログラムへの反応」と述べている。

ポストモダニズムには「モダニズムが反抗した伝統に回帰する【キッチュ】と、政治的・社会的問題を隠蔽する【ポピュリズム】」という、反動と抵抗という主に2つの潮流が存在している。

反動のポストモダニズムはモダニズムを拒絶し現状を肯定する思考、抵抗のポストモダニズムはモダニズムを批判的に継承し現状を問題化する思考である。

この反動と抵抗のポストモダニズムについては、ランシエールが頻繁に取り上げるリオタール(ジャン・フランソワ・リオタール)の思想にもみられる。

リオタールは『こどもたちに語るポストモダン』(1986)や『非人間的なもの』(1988)において、ドイツの新表現主義やポストモダニズム建築に見られるような具象と抽象との混合について「順応主義」「折衷主義」として弾劾しているそうだ。

それはわかりやすい題材によって大衆に心地よい「慰め」を与えながら、芸術が真に問うべき問題を隠蔽するという。

リオタールはバーネット・ニューマンらのアヴァンギャルド芸術が目指しているものは、『構想力等の精神の諸能力によっては構成・対象化できないという意味で「非質料的な(immaetérielle)」質料と呼んでいる』という。

引用の引用にはなってしまうが、以下に記す。

それら〔非質料的質料〕すべては、受難、受苦の出来事を指し示している。精神はそうした出来事への心の準備ができておらず、狼狽させられる。精神はその出来事についての、不安であれ喜びであれ、曖昧な負債の感情だけを抱き続けるのだ。

これを受け鈴木氏は「リオタールが崇高な芸術に託すのは、我々に美的な感覚を与えるというよりもむしろ、こうした負債の感情という倫理的なものを意識させることなのである」と述べている。

モダニズム/ポストモダニズムの関係性を明らかにしたうえで、本題であるランシエールの『感性的なもののパルタージュ』の読み解きが始まる。

第一の提示は「イメージの倫理的体制」であり、現在の芸術と呼ばれるものは「イメージ一般と同一視」されており、その「用途」によって、その価値が判定される、としている。

第二に「諸芸術の表象的体制ないし詩学的体制」であり、これはアリストテレスの「詩学」に端を発する。諸芸術とは主題に対する「真実らしさ」といったような種々の規則に基づいており、これらの規則に従って良し悪しや適切さが判断される。

第三は「(諸)芸術の美的体制」であり、芸術に基底された規則や原則といったものを「切り離す」ことにある。これは、アリストテレスによる芸術=ミメーシス(模倣)という概念を取り払い、芸術の「自律性」を促すもの=「絶対的特異性」である。

芸術の絶対的特異性すなわち自律性は、芸術がいかなる規則によっても他の領域から区別されえないということが条件として背成立する者なのだ。このように美的体制とは、芸術の特異性の確立と、芸術固有の領域の消失という相反する事態の同時成立を「構成的な矛盾」として含む体制なのである。

モダニズム(モダニティ)にはこの「美的体制」が損なわれているという点が、ランシエールの主張するもののひとつである。

批判の内容は2点に集約されており、①過去と現代といった単純な対立関係や過去からの直線的な発展形態として現代を捉えるような芸術史観それ自体に対する批判。②過去の表象的な芸術、現代の非表象的な芸術というように、芸術の純粋性を損なうものとして糾弾する思想への批判。

②については名指しでクレメント・グリーンバーグ的なモダニズムが、美的体制の諸特徴の「隠蔽」であると批判している。

ランシエールの芸術史観は「過去は発展史的に乗り越えられるものではなく、絶えず現代と有意味な仕方で関連づけられる」というものである。

美的体制においては過去の芸術が、当時とは異なった文脈で復活する。(中略)「異質な時間性の共存」によって作品が帯びる力そのものに「芸術性」を認めることによって成立するのだ。かつそれは、過去の体制では作品の「非芸術的」部分とされていたものに芸術性を付与することでもある。
美的体制の芸術は、過去の断絶によってではなく、むしろ過去の「再解釈」によって特徴づけられる

新たな解釈によって過去の作品もまた当時とは異なるコンテクストとして「復活」させることができる。すなわちこれは「ファインアート写真の見方」における「見立て」にほかならない(当本については後日Up予定。)

グリーンバーグに代表されるモダニズムの概念によって「隠蔽」された「混交」こそが、「美的体制」における端緒(モダニズムの始まり)からすでに存在し、現代へと続いている。

混交とは、アーツ・アンド・クラフツ運動が芸術と生活とを一体化させることのように、芸術とそのほかのものと相互作用的に取扱うを指す。すなわち美術とその他とが混ざりあった状態は、モダニズムが始まりから既に存在しており、これこそが美的体制における自律性を「逆説的に」成立させている、というのがランシエールの主張する内容である、と鈴木氏は述べている。

このことは、芸術・非芸術や芸術・生活といった境界の消失が同時に存在しており、それこそが「美的体制」の根幹を成していることを意味する。

ここまでをベースにして、副題でもある「美学と政治」へとつながっていく。

「美的体制」の「最初の」「乗り越えがたい」マニフェストとして、シラーの美的状態があるという。美的状態についてはシラーの著書『美的教育書簡』に記されている。

『美的教育書簡』においてシラーは、能動的な理性が受動的な感性を支配するという人間内部のあり方を、美が調和させると考える。この調和において、理性と感性とが同時に滑動し、戯れの状態すなわち「美的状態」に置かれるとき、人間の自由が実現するとされる。

ランシエールがシラーに着目している点として「美的体制において芸術が人間性の変革に対し特権的な役割を演じるようになる」という図式が判例的に表れていると鈴木氏は指摘する。

こうした思想を起点とし、ランシエールは芸術と政治・社会との関係性へと展開させていく。

「美的体制」においてより重要であるのは、このシラーの思想をより忠実に準拠したもうひとつのモダニズム形態であり、これをランシエールは「モダニティ主義」と呼んでいる。

「モダニティ主義」とは『諸芸術の美的体制の諸形式と、モダニティに固有の使命あるいは運命を完遂する諸形式との同一化』によって定義付けられている。わかりそうでよく分からないこの定義を鈴木氏は以下のように解釈している。

美による人間の教育というシラーの企画を引き継ぎ、近代の使命たる人間の生の変革を、あらゆる規範から自由になった芸術の絶対的特異性を利用することで行おうとするものである。

一方で、ポストモダニズムについてランシエールによると、『モダニティ主義が芸術を用いてその実現を追求してきた「自由」や「自律性」の観念の再考を迫るものへと「変容」さえしてきた』としている。

これは、モダニティ主義がシラーの思想に準拠し、「人間の人間性の自己解放」を目指していたと鈴木氏は指摘する。

こうして、モダニズムから抵抗のモダニズムへと至る過程で捨象された「混交」が、現代美術が社会に対して批判的であるための構成条件として存在していることを意味する。

現代の批判的芸術はまさにさまざまなものの混交を利用することで、新たな仕方で社会に対する政治的効果を発揮しうるとされるのだ。

その具体的な方法について、ランシエールは『混交によって作品の意味・価値が「決定不可能」に、すなわち「宙吊り」にされることで、作品に政治的有効性が与えられる』と考えていると鈴木氏は解釈している。

「決定不可能」について鈴木氏は「例えば展覧会のタイトルに両義性を込めることで、それが何への批判・何への応答なのか、ということが決定不可能になる」と比喩している。

なるほど、これは分かりやすい。混ぜ合わせることによって、その作品における本質的な意味を恣意的に隠すことによって、作品は政治的な意味を獲得することが可能となる。これは、ゲルハルト・リヒターやティルマンスにも通ずるところがある。

現代における展覧会についてランシエールの見解は、混交のもたらす意味や価値の宙吊りを維持することで、「それ自体が世界の複雑性を反映するものとなる」ことに帰結される。

以上を踏まえたうえで、鈴木氏は以下のように結んでいる。

ランシエールが提出するのは、先行するリオタールらのように、社会批判のために美的体制における芸術の特性を抹消することなく、むしろその特性たる異質なものの混交のそれ自体に社会批判の可能性を見出す、新たな芸術観なのである。

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非常に掴み所がなかった『感性的なもののパルタージュ』が、鈴木氏の解釈によって非常に明確なものとなった。

そして、修論へ向けての方向性もみえてきたような気がする。バラバラであったパズルのピースが少しずつはまり出し、一本の木へと生長してきた感覚。

その枝葉にファウンド・フォトの要素は含められない気がしてきたが、少なからず時代の潮流は掴めたことは収穫であったと思う。

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