泡沫

 夏が出会いの季節だなんて嘘だ。
 気分が開放的になるだとか、イベントごとが多いからだとか、そういうのはそういう人のために誂えられたものであって、わたしにはぜんぜん関係なかった。
 外に出ればすぐに汗をかいてしまうのがいやだし、なにより町をわがもの顔で自分たちの社交場にしてしまう虫たちが耐えられない。後から来たのは人間の方だとはわかっているけれど、ここはもうわたしたちの町なのだ。
 石造りの森の中にほんの少し残された木々に縋りついて彼らは求愛の歌をうたう。すぐに費えてしまうその命を繋ごうと必死なのだ。
 何年も何年も土の中で我慢して、外に出て交尾をしたら死んでしまう、その繰り返しにはなんの意味があるのだろう。
 その繰り返しにすらなれないわたしは。

 茜と出会ったのは去年の秋だった。

 わたしは在宅で仕事をしていて、必要がなければ外に出ようとも思わないたちだったから、この家賃6万2千円の1DKが生活のほぼすべてだった。
 それでもお腹は減るし、通販で買うことがはばかられる日用品の類を買うために外出はたびたびする。
 それに、わたしは別にひとり孤独に過ごすのが好きというわけではないのだ。結果的にひとりでいることが多いけれど。
 かといって大勢でいると気疲れしてしまうこともあって、メールや電話などのやりとりと少しの打ち合わせを除けばひとりで集中できる今の仕事は肌にあっているように思えた。
 その日は長期間に渡った少し重めの仕事を片付けたところで、納品データをクライアントに送って無事にOKをもらったのが17時過ぎのことだった。
 久しぶりに外で食事をしようと思って3日ぶりによそゆきの身支度をする。必要がないので習慣にしてはいないが化粧は嫌いではない。

 外へ出ると、もう10月になるというのに昼間の暑気が引いておらず、重く湿った空気と相まって夏の面影を感じさせた。
 思わず眉をひそめてハイゲージのニットカーディガンを脱ぐ。荷物になってしまうし玄関に放っておこうかとも思ったけれど、きっとご飯を食べて店を出るころには涼しくなっているだろうと想像して、カーディガンは肘にかけて歩きだした。
 10分くらいで目当ての店の灯りが見えてきた。
 そのバルはアンティークを基調にしたインテリアやライティングと、素朴だけど品のいい料理で小さな店ながら話題になっている。
 店先に置いてある手書きの看板で今日のおすすめをチェックし、店内がゆらりとぼやけて見えるガラス窓のついた扉を引くと、真鍮製のドアベルがからからと小気味いい音を立てた。
「いらっしゃいませ」
 見知った顔がこちらを向き、定型文をとなえた後に目線でカウンター席を示す。
 口角をあげつつ軽く手を振って了解のサインを出したあと、店内奥側の席へと座った。
 ここの店主、広瀬淳一はかつての同級生で、大学を卒業してデザイン会社に就職をした後に店を開いた。たまたま住んでいるところが近かったこともあり学生時代から仲がよく、仕事が一段落したときや友人との語らいの場としてよく利用させてもらっている。わたしの仕事のことも知っている数少ない友人だ。
「しばらく。生でいい?」ふきんでグラスを拭いながら淳一が問う。
 わたしがうなずくと、淳一はカウンターの上に引っ掛けてある新しいグラスを取り上げ、タップからビールを注ぐ。この瞬間が一番好きだ。
 黄金色の液体がグラスの底に落ち、曲線に沿って舞い上がる。なぜだか真っ白な泡を伴ってビールはグラスのてっぺんまで満たされ、わたしの目の前にサーブされる。黄色と白の完璧な7:3。底から登る気泡をじっと見つめる。どこからか現れては吸い込まれるようにして消えるつぶつぶがなんだかかわいい。
 淳一はお待たせしました、と形式上言ったあとに半分くらいのビールが入った自身のグラスをこちらによこす。
 乾杯にこたえてグラスを鳴らし、ひと口、ふた口と傾ける。
 華やかなホップの香り。喉を通る炭酸の刺激が心地いい。舌で麦芽の苦味と甘みを感じる。
 思わずため息が出た。家では飲まないのでこれが久しぶりのお酒であり、それはこの4週間まともに休みも取らず心血を注いでいた仕事からの開放の合図でもあった。
「はい、お通しね。間空いたけど忙しかったんだ?他なんか食べる?」
 今日はカポナータと少量のナッツだった。おすすめにあったレバーパテとチーズの盛り合わせを注文してもう1つの質問に答える。
「数が多くてね。仕様も曖昧だったからイメージが沸かなくて。時間食っちゃった」
 自嘲しながらまたグラスを傾け、飲み下す。頻繁に飲むわけではないが弱いわけでもない。同じものをとおかわりを要求する。
「お待たせしました」
 しばらくしてビールと注文した食べ物を持ってきたのは淳一ではなかった。
 声を聞いて顔を向けた先のその人は赤みがかったブラウンの髪をポニーテールにまとめていた。間接照明のオレンジが映し出す横顔の滑らかさと、薄暗い中でも影を落とすまつ毛の豊かさが印象的だった。
 皿をわたしの目の前に置くと薄い唇を迷いなく開き、5本を揃えた指でチーズを指し示しながら名前を読み上げていく。
 わたしはその指先から目を離せないままでいて、その5つの乳製品がどんな種類でどんな味なのかだなんていう説明を聞かずに意識のほとんどを視界に向けていた。爪には金色を基調とした複雑な文様が描かれている。
「先週入った茜ちゃん。仲良くしてやってね」
 視界の外から声をかけられ思わず振り返ると、淳一がニヤけた顔でこっちを見ていた。
「茜です。さっき店長からお話聞きました。同級生の方なんですよね?」
 からっと乾いたみたいな軽やかな声だ。質問の答えは既に聞いているんだろうけど、会話がしたいんだなと思って首肯する。
「そう、皐月です。大学が一緒で。よろしく」
 彼女は制服となっている黒のスラックスに白のブロードシャツ姿で、裾をきちっと入れている。身長はわたしより少し高いくらい、165cmといったところか。快活そうに煌めく瞳はこちらを真っ直ぐに見据えていて、体の前で静かに揃えた両手の先で爪が店内の照明を受けて鈍く光っている。
 指を見ているわたしに彼女は、
「好きなんです。クリムト」
 と言って顔の前で両手の甲をこちらに向ける。指は細く長く、絵画をモチーフにしたと思われるネイルがよく似合っていた。
 指の間から顔をうかがうと目があった。切れ長の一重まぶたが涼しい。
 微笑む彼女の表情には独特の質感があって、いやみでなく上げた口角に意図を感じたから、「そう」なんだとわかった。多分このとき彼女も気づいたのだと思う。それと同時に淳一の表情の意味にも気がついて少し腹が立つ。
 ニヤけた顔を隠そうともしない淳一が茜にグラスを渡して、わたしたち3人は乾杯をした。

 茜とは趣味がよくあった。
 あの日以来、淳一の店で度々顔を合わせ仲良くなったわたしたちは、連絡先を交換して遊びに行くようになった。出会ったときのネイルの元ネタをふたりで見に行ったりもした。
 初対面では大人びて見えた茜はわたしの2個下でフリーターをしていて、今まで色んなアルバイトをしてきたらしい。あまり物事に執着しないたちなんだと笑う彼女は、かといって刹那的なわけでもなくて、まるで翼があるかのように軽々と世界を飛び回っているように見えた。
 普段の仕草も大きくて大げさで、揺れる髪の毛や身ぶりと笑った顔が子どもみたいでかわいかった。
 これまでの生きかたも性格もぜんぜん違ったけれど、茜といるのは楽しかったし心地よかった。だからわたしたちが恋仲になるのに時間はかからなかった。
 いわゆる告白みたいなことをされたときにも、それは出会ったときからわかっていたようにものすごく自然なことのように思えた(多分向こうもそう思っていただろう)から二つ返事でOKして、その時の茜の笑顔がまぶしくってキラキラしていたから、ああ、このままこの子をつかまえてカゴに入れてしまいたいだなんて子どもみたいなことを考えたりした。
 でも、もちろんそんなことはできなかったから、彼女は飛び立っていってしまった。

 話はかんたんだった。ほかに好きな子ができた。よくあることだ。
 6月で、まだセミは鳴いていなかったけれど蒸し暑い日の夕方だった。
 路地裏のこじんまりした店でわたしはいつもどおりビールを頼み、茜はウーロン茶を今日は頼んだ。開け放たれた入り口から生ぬるい風が入ってくる。
 程なくして飲みものと小鉢に入った枝豆が運ばれてきた。
 何も言わずにわたしは一口飲んだけれど彼女はぜんぜん手をつけようとしなくて、そのうちに「ごめん」って話しはじめた。
 こんなもの、「話をしたい」って連絡があってから予想してたことだったから、別れたいって言われたときにも驚きはなくて、どこか冷静になった自分が「爪伸びたなあ」だなんて関係ないことを考えたりしていた。
 いつか思ったみたいにカゴに入れてしまっていたなら、この子の軽やかさは失われてしまっただろうし、それはわたしの好きな茜じゃなくなってしまっていただろうから、仕方ないことなんだなと納得できた。
 だからせめて最後にいつもの茜が見たくて、眉間にシワを寄せてうつむいている頭をくしゃっと撫でて笑ってみせる。
 先に泣き出してしまった彼女をうながして、すっかりびたびたになってしまったグラスを取らせる。
 わたしたちは多分最後の乾杯をした。
 口に入れたビールはすっかりぬるくなっていてもう泡も立たなかった。

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