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自由のコスト

あまりnoteでは時事的なことは書かないつもりだったのですが、ぼくたち全員にとって大切なことなので書きます。

あいちトリエンナーレにおける「表現の不自由展・その後」が、暴力的な恫喝によって中止に追い込まれた件です。

愛知県の大村知事は、ガソリンによる放火テロを示唆した匿名の脅迫FAXや、県職員個人への誹謗中傷が相次いだことを中止の理由と説明しています。

いかなる理由であれ、表現や言論に対するこのような暴力的恫喝は、絶対に認められません。私たちは、暴力による言論封殺に、断固として反対すべきです。

ぼくは現地に行ってこの目で見ていないので、「表現の不自由展・その後」がどのような内容だったか、実際のところはわかりません。でも、展示内容の如何にかかわらず、放火テロの脅迫や職員個人への誹謗中傷は威力業務妨害という明らかな犯罪であり、また単なる犯罪にとどまらない、ぼくたちの暮らしに大きく影を落とす問題です。

このような暴力的脅迫がきちんと取り締まられないと、気に食わない言論や表現はすべて暴力で潰してしまえ、という流れができてしまいます。さらに政治サイドがその流れに乗っかって、自分たちの都合の悪い言論や表現に対する脅迫は見て見ぬ振りをするなどの恣意的な行政の運用を始めると、言論封殺はさらに加速してしまいます。

同調圧力の強い日本社会では、権力やマジョリティーに対する異議申し立ては、「なんだか面倒くさそうな人たち」によるものだと白眼視されています。だから、今回の「表現の不自由展・その後」のような問題提起に対して暴力的な脅迫が行われても、「あんたらが余計なことしなかったらええんや」といったマインドで、脅迫者よりもむしろ脅迫される方が悪い、という声が多くなりがちです。

でも、本当にそれでいいんでしょうか?

自分が思ったことを自由に、安全に言える社会と、決められたことしか言えない社会、どちらがいいでしょうか?

毎日の暮らしで手一杯で、難しいことはわからないから、誰かが言ったことになんとなくついていく。そうやって、かつての日本が太平洋戦争に突入してしまったことをぼくたちは知っています。軍部の独走ではなく、大衆の支持があったから、日本は勝つ望みのない戦争を始めたのです。

今回の「表現の不自由展・その後」が恫喝によって中止になった出来事は、日本が戦前の全体主義のような社会へと向かっていきつつある、一つの表れではないでしょうか。

大げさだと思いますか? たかが芸術祭の一企画展が脅迫によって中止に追い込まれただけで、日本が再び全体主義になるというのは、言い過ぎでしょうか?

集団からはみ出さないように自己規制していくだけでなく、誰かの意見が暴力で封殺されることに見て見ぬ振りをする。そうやって目をそらし、沈黙するごとに、ぼくたちの自由は着実に死んでいきます。そしてある日、言いたいことを言えない、言わせない、そういう社会になってしまったことに、ぼくたちは突然気づくのです。

そして、自由が失われた社会で、平和裡に再び自由を取り戻すことはほとんど不可能です。

このような文章を書くことは気が滅入ります。あまり楽しい気分にもならない。ぼくはできることなら美しく、愛にあふれ、楽しいことにだけ触れていたい。ネガティブなことに自分の意識をフォーカスしたくはないです。ですが、面倒でもぼくは声を上げます。なぜなら、これはぼくたちが、ぼくだけでなくあなたが、そしてみんなが自由を享受するために必要なコストだと思うからです。

あなたが見たいものを見たり、ぼくが書きたいことを書いたりできるのは、自由だからです。そして自由とは無条件に与えられるものではないのです(残念ながら)。たとえ一人ひとりは小さくても、自由を求める声を上げ続けないと、自由は失われていきます。そしてその先に何が待っているか、皆さんもよくご存知のことと思います。

今回の件に関しては、愛知県警は放火テロの予告犯に対し、しっかり捜査して対応してもらわなければなりません。逮捕に全力をあげてほしい。そしてぼくたちは、ただ面白おかしくこのニュースを消費するのではなく、表現の自由とは何か、どのようにして表現の自由は守られるのかについて、想いを馳せたい。それは面倒で時間のかかることですが、その手間こそがぼくたちの自由を維持するために必要なことではないでしょうか。

最後に、「表現の不自由展・その後」の公式サイトに書かれた解説文を転載します。この文章から、あなたは何を感じ、何を考えますか?

この部屋の中は、まるで展覧会の中のもう一つの展覧会のような雰囲気を醸し出しています。
ここに展示されているのは主に、日本で過去に何かしらの理由で展示ができなくなってしまった作品です。その理由は様々ですが、「表現の自由」という言葉をめぐり、単純ではない力学があったことが示されています。
表現の自由とは、民主主義や基本的人権の核心となる概念の一つです。本来は、権力への批判を、いつでも、どこでも、どのような方法でも、自由に行える権利を指します。しかし現代において、その対象は為政者や権力者とは限りません。そのため、表現の自由は無制限に認められるわけではなく、他者の人権を損なう場合は調整が行われます。
私たちは、この展覧会内展覧会で、それぞれの作品が表現する背景にあるものを知ると同時に、これらの作品を「誰が」「どのような基準で」「どのように規制したのか」についても知ることができます。


ありがとうございます。皆さんのサポートを、文章を書くことに、そしてそれを求めてくださる方々へ届けることに、大切に役立てたいと思います。よろしくお願いいたします。