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「人間」か「システム」か−発達障害の概念を手がかりに高度情報化社会を考える–

複雑怪奇の時代

 
近年、複雑化する社会(システム)を前に、無力感や、行き詰まりを感じる人も多いのではないだろうか。

世の中の様々なことがブラックボックス化し、不透明感が増した社会において、そのような閉塞を感じる人が出てくるのも、ある種当然のことのように思われる。


以前と比べて、社会は確実に複雑化した
仕事の面においても、生活の面においても人々に求められるものはかつてと比べて格段に増えた

よって、人々に求められる「普通」の水準も、かつてと比べて極めて高くなっている
昭和の時代と今の時代の仕事、そのインテンシティー(労働強度)は、どう変わっただろうか。


例えば、昭和時代には、銭湯の番頭のような「いるだけ」の仕事や、個人商店の店番のような「単純な」仕事があり、それらは確かに重要な意味を持っていた。


しかし翻って現代ではどうか
令和時代の仕事は、マルチタスクや高度なコミュニケーションスキルが前提条件とされている。

そこに農業や製造業からサービス業への産業構造の変化が追い討ちをかけた。

さらに「正社員のコア化」が進み、労働の集約化が進んでいる現在において、一人一人に求められる労働の強度は確実に増している


そのような変化により、「普通の人」が「普通の仕事」からはじき出されるような事態が起こった


必然とされた「発達障害」ブーム


社会に順応できない人々が必然的に産み出されているということは、あるものと接点をもっていると考えている。

それは近年における「発達障害ブーム」である。

説明をすると、発達障害は、ほんの数年前まで少なくとも自分で喧伝するようなものではなかった。

それがここ数年で状況が変わり、今では発達障害と診断されたがる人たちで精神科の待合室は溢れかえっているという。


医学的な知見からすると、ほんの数十年ほどの間で、障害でなかったものが、障害に認定されるということは考えにくい。

その解を得るにはやはり社会の力学を考えなければならない。


人間社会は進歩してきたとはいえ、その変化はゆっくりとしたものであり、かつて人々はそれに順応してきた。

しかし昨今のあまりに速い社会の変化や技術変革(テクノロジー)のスピードに、生身の生き物である人間が、今や、ついていけなくなっているのではないか。


このことが示唆するのは、社会(システム)と個人(人間)とのギャップを埋めるものとして、人々は「発達障害」を、意識的・無意識的にも欲しているのではないかということである。

推論ではあるが、発達しすぎた社会・技術への適応術・生存術として、近年、人間は「発達障害」というベールをまとうようになったのではないかというのが、一つの仮説である。


問題の見えにくさ


現代の生きにくさは、高度化した社会(システム)の中で不可視化されがちで、また困っている当の本人でさえ、その生きにくさの理由を言葉にすることを難しく感じている。

そのような「隠れた生きにくさ」を抱えている人たち人間とシステムとの間で起きている齟齬、およびそれをどう超克していけるのか。

私たちに課された課題は多い。



そもそも、誰だって「発達障害」ではないのか

インターネット上で遭遇した「発達障害チェックリスト」なるものには、自らもそうではないかとあてはまる項目がずらりと並んでいた。

私はケアレスミスをするし、雑音が気になりもする。忘れ物をすることもあるし、物をどこに置いたかわからなくなったりもする。

しかしよく考えてみれば、それは日常生活の範疇と言えるのではないか。

誰だって、「約束や、しなければならない用事を忘れたことが時々ある」ことはあるだろうし、「考える必要のある課題を避けたり、遅らせたりすることがある」ことは日常生活の中によく起きるだろう。

はたして、それらに当てはまるからといって、それが発達「障害」なのか、私にはよく理解できなった。


「システム」と「発達障害」

インターネットの中や、また日常生活においても「発達障害」なる言葉が聞かれるようになって久しい。

これほど「発達障害」という言葉が人口に膾炙したのは、時代の要請のようなものを感じずにはいられない。

また、インターネットの中で人々がこぞって、自分こそが「真の発達障害」であると競っている様は、あたかも「発達障害」が「水戸黄門の印籠」のように機能しているかのようにも映る。

では、その「印籠」は何に対しての免罪符として向けられているのか。

私は、それは、高度に複雑化した社会(システム)に対して向けられているものだと思う。

いつの時代においてだって、社会というすきまからこぼれ落ちる者はいる。
しかし今ほど、「普通でないことが普通になった」時代はないのでないか。

いや、むしろ「普通であること」がマイノリティである時代を私たちはこれから生きていくのではないか

近年における発達障害の隆盛は、それが過剰診断されているがゆえに起きたものではないとみる。

そのことを紐解いていくには、「発達障害」という概念そのものに対しての見方の転換が必要なのではないか。


具体的な経験を通して感じたこと


また私の就労経験からも、同様の関心が浮かび上がってくる。
私は以前、個別指導の塾で働いていた。

一対一で生徒と向き合って指導していたときはよかったのだが、一人で二人の生徒を教えるよう命じられたところ、途端に指導に難しさを感じるようになった。

私のように、一度に複数のことをやることに難しさを感じている者も多いのではないか。

しかしだからと言って、自分自身が「発達障害である」ということにはならないであろう。

発達障害とは、もっと複雑なもので、個人の特性からその一面だけを切り取っても、「そうである」とは言い難いものであると思う。
私は、自分がこう感じたことをきっかけに、「発達障害とは何なのか」ということと、真剣に向き合う必要性を感じた。


発達障害をもっと知っていくために


そのことを考えていくには、単眼的な視点では足りない。
社会にも目を向け、また人の声にも耳を傾けなければならない。

複眼的な視点から、「発達障害」というものを考察することによって、解明の光が差すことの一助となれば、幸いである。