瀬川琢【英語・小論文講師】

札幌生まれ。 北海道大学教育学部卒。 現在、某予備校英語・小論文講師。 社会や人生につ…

瀬川琢【英語・小論文講師】

札幌生まれ。 北海道大学教育学部卒。 現在、某予備校英語・小論文講師。 社会や人生について思ったことをつらつらと書いていきます。 フォローしていただいたらお返しします。

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まずは自分が幸せになるということ

最近こんな本を見かけた。『利他の心』という本だ。 確かに、「利他」というのは重要である。他人を慮る気持ちはいつの時代だって重要であることは否定のしようがない。 だがしかしである。 明日、食うメシに困っている者が他人の心配をすることなど、現実的に考えて可能なのだろうか。 明日、着る服がない者が、他人の心配をできるのだろうか。 明日、住む家がない者が、他人の心配をできるのだろうか。 もちろん、これは極端な例ではある。 しかし、ある点では的を得ているとも言える。 それは、他

    • 共通テストの英語がTOEIC化している

      共通テストの英語の問題を解いてみて唖然とした。 自分が受験したセンター試験の頃とは、まるで違うものになってしまっている。 チラシを読んだり、webページを読んだりと、長々と続く膨大な量の英文を解いていて、どこか既視感を覚えた。 そう、あのTOEICだ。 おまけに同じような文章が延々と続いていて、「飽きる」という点までTOEICとそっくりだ。 かつてのセンター試験は、「英語のデパート」のような試験で、発音・アクセントから整序問題まで、英語のオーソドックスな部分を程よい難

      • アメリカにおける「創造論」と「進化論」-最も「進んで」いる国における問題点-

        科学で「説明しないもの」と「説明できないもの」の違いはなんであろうか。 この二つはときとして曖昧なものとみなされ、混同されたり、また本来片方でのみ扱うべきものがもう一方の領域で論じたられたりすることなどにより、様々な問題が生じている。 非常にセンシティブで、込み入った題であるが、多少なりとも整理しやすいケースがある。 その代表格である、アメリカにおける「創造論」と「進化論」の考え方や論争をもとにして、この二つの違いを考えていきたい。 アメリカという国は、アンビバレントな

        • 「受験英語」有用論

          英語教育において、とりわけ「受験英語」は槍玉に挙げられることが多い。 昔の人であるなら、中高6年間も勉強したのに全く話せないじゃないか! このような怨嗟の声がとんでくるのが容易に聞こえる。 しかし、これは受験英語の本質を見誤っているに過ぎない。 義務教育が提供し得るものとは何か そもそもにおいての話であるが、日本の英語教育においては、義務教育で「流暢に話す」ことはあまり力点が置かれていない。 そうであるから、話せないじゃないか!と批判するのは、お門違いであると言える

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        まずは自分が幸せになるということ

          「年功序列型」がいかに今の若者を惹きつけないか

          終身雇用や年功序列型賃金は、かつては日本の雇用体系と非常にマッチしていた。 高度経済成長期においては、会社はいわば、「疑似家族」のようなものであり、社員はそこに安息を見出すことができていた。 しかし、そのような「昭和のファンタジー」は既に消えかかっている。 そもそも今の若者は「10年かけて係長、20年かけて課長、30年かけて部長」に出世していくというような雇用システムを魅力的に思うのだろうか。 今、新卒で入ってくる若者(主にZ世代を想定する)には、このような「長期的に

          「年功序列型」がいかに今の若者を惹きつけないか

          縮小する国と向き合えるか

          日本における人口は2008年をピークとして、その後減少のフェーズに突入している。 この人口減は留まることを知らず、おそらく今の団塊ジュニア世代が鬼籍に入る2080年頃までは、生まれてくる者より、死ぬ者の方が多い「多死社会」が続くとされている。 このような現象は人類至上未曾有の事態であり、社会にどのような地殻変動をもたらすのか、定かではない。 しかし、既に人口減少社会の綻びはいたるところに芽を出しつつある。 たとえば最近、24時間営業の店をあまり見なくなったと思わないだろ

          縮小する国と向き合えるか

          逆転の構造

          思えば、何事においても、事態が一気に好転するようなことはそうそうない。 ショパンコンクールで入賞するのも、槍投げで世界一になるのも、その裏には尋常ならざる努力があったはずである。 しかし、努力は普段は不可視化される。 私たちは結果だけを見ることになるから、彼らが普段いかように努力しているかを知る術がない。 これは、何もそのような世界的な賞を取ることに限ったことではない。 スヌーピーの中でこのような言葉が出てくる これは、ある種真理をついていると思う。 麻雀の牌を整

          LINEの罪

          まず前提として、日本語はコンテクストを読み取ることが重要な言語である。 「阿吽の呼吸」という言葉にもある通り、日本語においては高度な「察し」の能力が要求される。 そのような点においてLINEは非常に罪深い。 なぜならLINEは高コンテクストツールの際たるものだからである。 これは、日本流の会話に合わない者を容易に排除する。 選別の装置として、LINEは優秀である。 しかしその行き過ぎた便利さが、人間を「ウチ」と「ソト」に分ける機能を加速させ、人間関係を均質なものへと

          真に有効な「インクルーシブ教育」とは何か

          こんな経験をした人がいるのではないか? 小学校の早い段階で、"ひまわり組"、"なかよし組"などのなんらかの障害をもった子供が所属するクラスが、併存する状況にある。 しかし、ともすれば、これは危惧すべき事態とも言える。 小学生はいわば、精神的にはまだ未発達の状態であり、これからの過程において、自分なりの考え方(自我)を確立させていく段階である。 そのような状況で、障害を持つ子供といわゆる「健常児」が併存する状況にいることはマイナスに作用することさえある。 いわゆる「健

          真に有効な「インクルーシブ教育」とは何か

          アメリカにおける「絶望死」とトー横キッズたちとの類似点

          興味深い統計を目にした。 アメリカにおいて、中年の白人層の平均寿命が下がってきているというのである。 世界はだんだん良くなるという、「進歩主義者」からしたら、この事実はいったいどう説明され得るのだろうか。 確かに、こんな世の中だ。 戦争が起こり、疫病が蔓延し、おまけにAIが雇用を奪っていくのではないかとしきりに喧伝されている。 そのような状況で、希望を持ち続けるほうがむしろ難しいのではないか。 アメリカの中年の白人層は、人生に絶望し、クスリにはしることになる。 そう

          アメリカにおける「絶望死」とトー横キッズたちとの類似点

          子育ては農業に近い

          今ではこのように言う人は少なくなったが、かつて子育ては農業の比喩として例えられていた。 種を撒き、土壌を整備し、適切に水と日光を与える。 しかし、それでも発芽するかしないかは、その植物次第である。 思えば、子育てもそのようなものだ。 適切に環境を整備し、あとは子供の自発性が芽生えるのを待つ。 親にできることなど、せいぜいそのくらいだ。 それがいつからか、紋切り型の「工業」が子育ての主流に取って代わった。 そこではまるで「仕様書」が付いているかのように、子供は「製

          限りないハイレベルを要求される令和の子育て

          かつて、子供は放っておいても育つとされた。 地域社会や、家庭、学校に包摂され、昭和や平成の子育てはもっと「ゆるい」ものだった。 確かに、多少秩序に欠ける面はあっただろうが、少なくとも筆者が子供のころは、子供は子供のままでいることができた。 翻って、現代の子育てはどうだろう。 現代における子育ては、その要求されるレベルが青天井にまで高まっている。 かつては、「明るく元気な子」を育てれば、それが子育ての「正解」だった。 しかし、今では「AIに負けないグローバル人材」を育てな

          限りないハイレベルを要求される令和の子育て

          教育における「政治的中立性」とは

          「教育」と「政治」、そのセンシティブな関係教育基本法第14条によると政治教育は、「①良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない。 ②法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。」と定義される。 教育において「政治」をどう扱うのかというのはセンシティブな問題である。 宗教教育などと同様、領域を規定した法律である本条文は、政治教育の重要性と、そこに内在する難しさを物語っていると言えよう。

          教育における「政治的中立性」とは

          「生活」の延長線上に「仕事」が位置付けられているということ

          私は、英語と小論文を教えることを生業としている。 世の中に仕事は無数にあるが、私は今の仕事を自分にとって天職だと考えている。 仕事と生活の一体性私の趣味は、本を読むこと、新聞を読むこと、英語の勉強をすることであり、他に特にこれといった趣味はない。 考えれてみればだが、その全てが、仕事に活きてくるものとなっている。 本や新聞を読むことは、小論文の理解に役立ってくるし、英語の勉強は当然、英語を教える上で有益である。 私にとってもは、この生活と仕事が密接に結びついている状

          「生活」の延長線上に「仕事」が位置付けられているということ

          「人生100年時代」の残酷な現実

          「人生100年時代」と言われて久しい。 昭和あるいは、平成の初期〜中期までは、人生とはもっとシンプルなものだった。 ライフステージは「教育」→「労働」→「引退」からなる、わかりやすい構成をしていた。 それが100年時代には、マルチステージなものへと変更されていく。 人々は、人生の節目に応じて、「教育」や「労働」の過程を行き来する。 これからの時代、これがキャリアコースの定番になってくるという。 しかし、現実はどうであろうか。 企業は、採用の際に「35歳以下」などの

          「人生100年時代」の残酷な現実

          「人間」か「システム」か−発達障害の概念を手がかりに高度情報化社会を考える–

          複雑怪奇の時代  近年、複雑化する社会(システム)を前に、無力感や、行き詰まりを感じる人も多いのではないだろうか。 世の中の様々なことがブラックボックス化し、不透明感が増した社会において、そのような閉塞を感じる人が出てくるのも、ある種当然のことのように思われる。 以前と比べて、社会は確実に複雑化した。 仕事の面においても、生活の面においても人々に求められるものはかつてと比べて格段に増えた。 よって、人々に求められる「普通」の水準も、かつてと比べて極めて高くなっている。

          「人間」か「システム」か−発達障害の概念を手がかりに高度情報化社会を考える–