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シャボン玉キッサ【読み切り短編小説】

そのファミレスは、正午を一時間半も過ぎたというのに、未だ混雑していた。月に一度、息子の検診が終ったあとに、病院の近くのファミレスに寄る。
最早、明美と優太のお決まりのコースだ。

新幹線の形のプレートにのったナポリタン、ハンバーグ、チキンライスには小さな旗、エビフライにトマトにイチゴにオレンジ。
そんなに食べきれないでしょうという量をぺろりと平らげた優太は、今度はお気に入りのイチゴのミニパフェをせっせと食べている。
口の周りはクリームだらけ。
小さな鼻のてっぺんにもちょこんとクリームがついている。
明美は微笑みながら、一生懸命な優太を見守っていたが、心は晴れないままでいた。
どうしてこんなに可愛い子が、病気にかかってしまったのだろう。神様は非情だ。優太が苦しみは私が代わりに引き受けてもいいのに。

「あああ、あえあいお?」ママは食べないの?
ぼんやりしていた私を見て優太が尋ねた。とても大きな声だった。

「ママは今お腹が空いていないの。コーヒー大好きだからこれでいいのよ」
明美は、なるべくゆっくり、口を大きく開きながら答えた。声も少し大きめ。

「おうあんああ」そうなんだあ
優太は納得のいかない顔でこちらを伺いながら、パフェを食べるのを再開した。

「おえ、あえう?」これ、たべる?

「良いのよ、ぜーんぶ優太のでしょ。今日も診察頑張ったんだから」
優太は満面の笑みを浮かべ、小さなパフェの宝探しを再開した。明美はといえば、大きな声を出し、他の客に迷惑をかけていないかと、周囲をキョロキョロと見渡している。

ファミレスを出て、優太の小さな手を引きながら、病院の最寄りの駅へ向かう途中、踏み切りのずっと向こうに、小さな喫茶店が見えた。
白い小さな看板に四つの文字。
その刹那、はてあれはなんだろうと足を止めた。
あんな所に喫茶店なんてあったっけ。
随分とごちゃごちゃした漢字を使った名前の店なんだな。
ぼうっしている間に電車が通り過ぎる。
踏み切りが上がったときに、明美は優太を見下ろして言った。

「優ちゃん、あそこのお店に入ってみようか」

明美がこの店に惹かれたのは、まず第一に不思議な店名。
第二に今時にしては珍しい、ログハウスのようなの外観が明美の目を惹きつけた。
優太の小さくて柔らかな手を引き、扉を開いてみる。がっしりとした木枠に、表面が凸凹している硝子が嵌め込まれた扉だ。とても、古い硝子だと言うことはわかった。以前、洋館巡りをしたときに、こういう硝子を見たことがある。

扉を開くと、からんからんと真鍮製の鐘の音がした。優太も音に気付き、金を見上げる。やあ、いらっしゃい。

店内は木と珈琲の香りで満たされていた。茶色で統一されたテーブル、椅子、カウンターは無骨な丸太から切り出されたもので、明るい店内はどこか森にいるような不思議な気分にさせる。

「いらっしゃい」

カウンターの奥から低い声が聞こえた。
明美が声がした方に目をやると、初老の男性がこちらをじっと見つめている。この店の店主だろうか。

「子供連れなのですが……大丈夫でしょうか?」
明美が店主と思しき男性におずおずと尋ねると、

「他の人客もいねえし、好きな席に座んな」
と、店主は更にぶっきらぼうな調子で答えた。

「優ちゃん、お外が見える席にしようか」
明美は、大きな窓から広いテラスが見える席を指さすと。優太は、元気よく首を縦にふって応えた。
その席は、二人にはちょうどいい大きさのテーブルに、切り株のような椅子が二つ。優太が切り株から落ちないかとハラハラした反面、嬉しそうに笑う優太を見るとつい微笑んでしまう。

店主がレモングラスと水の入ったピッチャーと、透明なグラスを運んできた。店主は無言で水をグラスに注ぐ。

「おいあん、おれおんおおおい?」おじさん、これ本物の木?

 優太が店主に尋ねると、店主の表情が僅かに動いた、ような気がした。
 明美が店主に、すみません、と言おうとした瞬間、店主は広角を少しだけ上げ、

「そうだよ、全部本物の木だ。おじさんとおじさんの友達で作ったんだよ」
 と、優太に向かって答えた。

「おいれ、おいういあっぱいええうお?」どうして、お水に葉っぱ入れてるの?
 優太は、興味深けにピッチャーを覗き込んだ。ピッチャーはたまのような汗をかき、きらきらと輝いている。

「そうだなあ、草だけどいい香りのする草だよ。こういう水をフレーバーウォーターってんだよ。殺菌作用とかリフレッシュにいいとか、色々効能があるんだ」
店主は優太にそう答えながら、飲んでごらんと無言で優太にグラスを差し出す。優太は不思議そうに首を傾げつつも、ピッチャーから注がれた透明な水をごくごくと飲んだ。

「おいいい!」美味しい!

「そうだろう、なんてったって、おじさんが育てているハーブだからな。美味しくないわけがない。さ、お母さん、これ、メニューね。ごゆっくり。決まったら、呼んで」
颯爽とその場を去ろうとした店主に向かって、明美は声をかけた。

「あ、あの……!」
 明美の手のひらはびっしょりと汗をかいていた。

「どうして……この子の言うことがわかるんですか」
 言ってから、私は何てことを尋ねる親なんだろうと、明美は赤面した。だが、聞かずにはいられなかったのだ。店主は、眉毛をあげてぶっきらぼうに答える。

「どうしてって言われてもねえ……わかるものはわかるんだよ」
 ますます赤面する明美に店主は声をかけた。

「お母さんが、何か気負うことじゃあねえよ」

メニューを開くと、呪文のようなコーヒーの銘柄がずらり。
ランチメニューは終わっていたが、サンドイッチのような軽食や、ケーキをはじめとした洋菓子、焼き菓子が食べられるようだった。明美は店主を呼び、本日のお勧めの珈琲と胡桃のパウンドケーキ、優太にはホットココアを頼んだ。
珈琲豆を挽く音がし、店主によってハンドドリップで丁寧に淹れる珈琲は、森のような店内をより一層あたたかにした。店主が、明美の注文した珈琲とホットココア、胡桃のパウンドケーキを運んでくる。

「ごゆっくり」

一口目、湯気と香りに心が包まれる。
二口目、雲間に隠れたお月様がひょっこり顔を出す時のように、強がりな自分の顔が見えた、気がした。
優太は、両手でカップを持ち、ホットココアにふーふーと息を吹きかけている。
明美は、胡桃のパウンドケーキを丁寧に切り分けた。
店主がそっと近づいてきて、取り皿をテーブルを持って来てくれたので、明美はありがとうございます、と軽くお辞儀をした。
木の実とリスの模様が描かれた、小皿。

「ほら、優ちゃん。このお皿にはケーキの材料が描かれています。何かな?」
 明美は、優太に笑顔で問いかけた。

「あっぱ?」葉っぱ?
 大真面目な優太には申し訳ないと思いつつも、明美はぷっと吹き出してしまった。

「葉っぱかあ。ブブー、不正解です。もう一度よくケーキを食べて考えてみてください」

久々にゆっくりと珈琲を味わっている気がする。雄太の大きな声を気にすることをなく、のんびりと。深呼吸をすると、珈琲の香り以外に、木の香りがした。深い深い森の香り。小さなリスがいる大きな森。
優太はまだ、小皿を眺めている。真剣そのもの。そこに、店主が小さなカゴを持って近づいてきた。

「おもちゃはあんまりなくてねえ……これで良かったら」
小さなカゴにはシャボン玉セットが入っていた。

 「おう、おえ、うい!」僕、これ、すき!
大きな声の優太の声が、興奮してさらに大きくなり、思わず明美は優太を落ち着かせようとしたが、店主がそれを目で制した。無愛想に見えるだけ、優しい店主は片頬を上げて穏やかに笑った。

「よし!じゃあ、おじさんと一緒にそこの庭でシャボン玉飛ばそうか」

「ああお、いっおあ、いい」ママも、いっしょが、いい

急に不安になったのか、優太は明美の手を引っ張った。明美は、優太の小さな手をやさしくさすった。

「お母さんには勝てねえなあ」

シャボン玉を片手に、明美の手を引っ張って離さない優太を見て店主は苦笑いした。優太は、明美と離れることを最近怖がる。特に、そこに第三者がいるとき。理由は分かりきっている。幼稚園を見学してからだ。
知らない子だ!と興味津々の様子で優太を囲む子供たち。
優太が手話で挨拶をすると、子供たちはぽかんとした。
明美はしまったと思った。
下調べはしていた、つもりだった。
だが、次の瞬間は明美の想像通りである。

「なあに、それ?」
「おもしろい」

おどけて真似をする男児もいた。
優太の顔はみるみる真っ赤になり、大きな瞳には涙が溜まっていた。
今まで親戚の子供意外とは遊ばせたことのなかった、明美は自身の大失態だと思った。その後、パニックになった優太は、大声で泣きながら明美の腰にしがみついた。

「ああ!ああ!」ママ!ママ!

それから優太は手話を使うことがなくなった。
公園に行くこともなく、家でせっせと遊ぶだけになってしまった。
赤子の時のように、夜泣きをすることすらある。
たった一度の屈辱は、彼のプライドをめちゃくちゃにしてしまった。
全て、明美のせいなのだ。

どこまでも高くて淡い水色の秋の空に、シャボン玉が上っていく。
虹色のシャボン玉は青空に吸い込まれて、滲んでは弾け飛ぶ。広々としたテラスの椅子に腰掛けて、シャボン玉を飛ばす優太を複雑な思いで眺めていたら、店主が珈琲マグを片手にどっかりと座った。珈琲は二人分。

「本日おかわり無料」
大人に対してはとことんぶっきらぼうらしい。明美は、店主におずおずと尋ねた。

「こんな楽しそうに遊ぶ子を……優太を見るのは久しぶりです。外は、怖いんです。優太も、私も」
 虹色のシャボン玉はパチンと割れた。そういえば……。

「こんなに長居してすみません。ご迷惑をおかけして。もう、出ますので」
明美が慌てて店主に告げると、店主は頬杖をつきながらちらりと明美を見た。その手は、無骨でぶっきらぼうなその素振りとは真逆の、細くて長い指の持ち主だった。

「さっき、店の外に本日貸切って紙を貼ってきた。だから、寛ぐといい。じじいの気まぐれだ」
えっ!驚いた明美は、咄嗟に店の扉の方を振り返った。

「じじいに気まぐれを起こさせたくなったら、事前に電話してくれると助かる。今日は客がいなくて良かったよ」
店主は、うーんと気持ち良さげに伸びをした。優太が、指をシャボン玉液だらけにして、虹色のたまを作っている。明美はシャボン液だらけの優太の手を拭きながら、店主に向かって、ありがとうございます、深々とお辞儀をした。店主は続ける。

「ここの店名見たろう。螺旋喫茶〈らせんきっさ〉。店ができたときに、肝心の店名を考えてなかったんだよな、俺。ぐるぐるぐるぐる螺旋みたいに考えて、結局、螺旋喫茶に落ち着いちまった」

明美の螺旋のような思い。ぐるぐるぐるぐる廻り続けてきた。これからも、廻り続けていくのだろう。優太の膨らますシャボン玉も虹色がくるくるとまわりながら、ふわりと空へ舞い上がる。シャボン玉は、青空に吸い込まれてはパチンとわれる。それでも、優太は懸命にシャボン玉をふくらまし、ふとこちらを振り返った時の顔は満面の笑みで溢れかえっていた。

「すっかり長居してすみません」
 日は暮れないまでも、影が伸び始めている。
「じじいの気まぐれさ。お母さんが気にすることじゃあねえよ」

明美たちが、店に入った時のようなぶっきらぼうさで、店主は言った。店主は、その場にしゃがみ優太に目線を合わせた。
「また来たときは、おじさんともシャボン玉やってくれるか」
「や、や!」や、だ!優太は悪戯っぽく笑った。
誰かに対してこんな風に笑う優太を見たのはひさしぶりだった。

子供は弱い。
だけれども、強い。
大人が思っている以上に。
私、まだまだ頑張れる。
自然体でも、生きていける。
この子と一緒に。凸凹の道を。

からんからん。また、いらっしゃい。鐘が明美と優太を見送る。

「ああ、あおこ、あんえいうおいえ?」ママ、あそこ、なんていうおみせ?
明美と手を繋いだ優太が、明美をじっと見つめる。少し冷たくなった優太の手が程よく心地よい。

「シャボン玉キッサ、だよ」

「おうあおあー」そうなのかー
しみじみと言う優太が面白くって、明美は大笑いをした。それにつられて、優太も笑う。二人の笑い声は、秋の高い空に負けじと高く高く響いていく。


いつか作業所とアトリエを作るのが夢です。寝たきりになる前に、ベッドの上で出来ることを頑張ります。