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キリスト教的な死と絶望を理解する キェルケゴール

最近、絶望について考えることが多い。

だけど"絶望とはなにか"については何一つ理解していなかったので、今日はキリスト教的に絶望を理解しようと思う。

理解した先に弱い私が強くなってたらいいなと思う。

絶望とは何か?

絶望とは何か。
wikiより引用したい。

社会的地位の喪失、信頼すべき相手(家族や親友、恋人など)の喪失・裏切りまたは死去などに遭遇し、未来への希望を失ったとき、人は絶望に陥る。

戦争などの極限状態では絶望が起こりやすい。平時でも、強姦や児童虐待、リストラやいじめなど辛い経験に遭遇し、絶望することがある。

また、幼少期の児童虐待や育児放棄等によって、成人期に精神疾患境界性パーソナリティ障害により絶望が増強することがある(ひどいケースでは解離性同一性障害を発症する、治療は困難を極める)。

絶望している際は、ひどい孤独感、世界から孤立し社会的に見捨てられたような感覚に襲われ、場合によっては自殺を考えるに至る。

自殺に至らなくても「生きているのが辛い」というのも絶望の末期と考えられる。

絶望に陥りやすいパーソナリティがあるという説がある。完璧主義的な人は、自分では乗り越えられない壁にぶつかると絶望しやすい。自尊心の低すぎる人は絶望しやすいともされる。

実存主義の哲学者セーレン・キェルケゴールは、著書『死に至る病』において、絶望の根底には自己意識があり、絶望とは死に至る病なのだと述べたうえで、絶望の対極に神による罪の赦しを挙げている。

簡潔に全ての答えをくれるwikiはすごい。

つまり、絶望したら死にたくなる。
だから神(宗教)が必要ということである。

宗教とは、必要な人にだけ現れるものであり、それは死が身近にある時、宗教はその人の前にだけ現れる。
だから信仰の自由がある。


キェルケゴールの世界はキリスト教で作られている。
キリスト教の世界は復活ができるから面白い。

つまり死という事象は、
死ではないことを意味する。

キリスト教的な死とは

死が死ではないということはどういうことか。

それはつまり、キリスト教におけるキリストとは死を超えた存在であり、死から人を甦らせる力を持っており、それがができるとなれば死という事象はキリスト教の中では本当の死とはなり得ない。

蘇るならば死が全てのものの終わりである前提は崩れるということである。

では何が人を死に至らしめるのがキリスト教の考えなのだろうか。

困窮、病気、悲惨、艱難、厄災、苦痛、煩悶、悲哀、痛恨もどれも死には至らない。

どんなに耐えがたい苦痛であっても、キリスト教的な意味ではそれで死に至ることはない。

しかし肉体がただの器であるならば、絶望こそが精神を死に至らしめる病である。

絶望=死ではなく、わざわざ"病"というのは、絶望したからといって肉体的に死なないからである。

死病に取り憑かれた"苦悩と希望がない状態"は、その点において"死することすらも叶わない病"である。

死が救い

勘違いしている人が多い気がするが、死は決して悪いものではない。

だから祈るのはいいけれど、受け止めることも大切である。

死はキリスト教の用語では精神的な悲惨の絶頂を示す言葉でなのであるが、死ぬことによって救済が成立することもあることを理解しなければならない。

死して救われる。
それは死に至る病から逃れるための手段の一つであるからである。
死は次世代のための空間で、蓄えた太陽からなる富の奢侈で、そして病からの救済の側面をも持つ。

生きることが辛くなることが絶望である。
希望が見えない状況のことを言い、甦らせても自ら死に向かう病である。

わたしは呪われている最中はただ苦しみに耐える必要があるだけだと思っていた。
しかし、パタリと未来が見えなくなるとそれが絶望に変わることを知っている。


本当の絶望とは自らに希望も未来もないと、
他者と、自分自身が決めつける事である。

では、希望と未来が見えたら救われるのだろうか。
希望とはなんであろうか。


ラットの希望の実験

水を入れた瓶にラットを泳がせる実験がある。

ラットが泳いでいる時間に個体差が見られたことを調べたものだが、力が続く最後まで諦めずに60時間も泳ぎ続けるラットと、
"こんなの絶対に無理だ"
と冷静にその瓶からはどうやっても逃げられない現実を理解して、早々に泳ぐことを投げ出してしまうラットに別れる。

その行動の違いはどこから生まれているのだろうか。


ここで実験は、次なる段階に進む。

ガラス瓶に閉じ込める前に、何度か逃がすという準備が行われた。
ラットを瓶に入れてシャワーを浴びせた後、瓶から取り出してケージに戻す。
そのラットたちは助かる経験を得る。


その後、そのラットたちを脱獄不可能な水瓶に閉じ込める。

水が満たされ、泳ぐのを止めたら即座に死んでしまう環境で、救われた経験のあるラットたちはみな体力の続く限り泳ぎ続けた。

それは未来と希望を信じたからである。

諦めない精神は美しいだろうか?


私は早々に諦めたラットだった。

まるでそこから逃げ出せる可能性がわずかでもあると信じているかのように、救いの手が差し伸べられるのを待ち続け泳ぎ続けるラットのことを想像すると、絶望しかなかった。

結果は絶対に助からないのである。
ただ苦痛が先延ばされるだけなら、その苦痛から早く逃れた方がいい。

それは自分の"弱さ"に対する絶望だった。

混乱と疲弊の中、状況を把握して泳ぐことを諦める。

それはガラス瓶を登る経験をしていないからであり、登るための準備も装備も体力も気力も思考力も協力者も、全てがなかったからだ。

どうしたら良いかわからない
どうしようもない

その諦めが、具体的に目に見える形で出現した時に絶望はやってくる。


ごめんなさいと謝ることしかできない

ただ謝罪だけを繰り返す

深い水の底に自ら沈んだ


赦し

謝罪はただの謝罪であって、神からの赦しではない。
罪のうちに止まっている状態もそれは新しい罪である。
だから私は呪われた。

溺れたことを無かったことにしなさいといわれたけれど、だからといって無かったことにはならなかった。

もっと早く祈ればよかったと思った。

絶望して、自己自身であろうと欲しない形態に、人生の流れの中で還元したとき、弱さを再確認した時、再び絶望はやってくる。
自己はある意味で自己自身を憎んでいる。

もう一度自己自身を獲得する気になれない。
自分が信頼できない。
だから、忘却へと逃げた。
忘却の助けを借りて無精神性の中で、ほかの人間と同じように暮らした。

私が赦されるために祈りたいわけではなかったから、祈る行為をしなかった。
祈らないことで受けとめるつもりでいたのは間違いだと気がつくまでに、10年以上もかかってしまった。

私は祈り方がよくわからなかった。

だからネットでざっくり調べてみてそこに書いてあった方法でとりあえず祈ってみた。
初めて祈ったのはついこの前で、一年に一度くらい、思い出した時に書く。
これは私の人生において写経3枚目である。
一枚書くのに3時間はかかる。
集中力が切れたら字が歪むからとても疲れるし、すごく疲れながら書き上げても最終的に燃やされる。

だけれど初めて書いた日のことは鮮明に覚えている。
筆が震えて、涙が止まらなくなった。

キリスト教的ではなく仏教的祈り方だし、この漢字の羅列の意味を私は全くと言っていいほど理解していないわたしが、なぜ涙が止まらなくなったのか。

正しく祈ったことがなかった副作用だと思う。

副作用がでたということは、この祈りは私に作用しているのかもしれない。

絶望を脱するには

絶望は精神における、すなわち自己における病である。
人間とは肉体が入れ物であり、本体は精神である。
精神とは自己である。
自己とは関係性により造られるものであるために、自己は自分で措定したものか、他者によって措定されたものであるかのいずれかでなければならない。

絶望とは自己という全関係が全く依存的なものであり、自己自身と自己を措定した相手により自己が定まらない状態の時である。

だから、絶望状態の人間が自分で自分の絶望を意識しているつもりで、自力で絶望を取り去ろうとしてもその行動は無駄である。


自分ではどんなに絶望に対して戦っているつもりでも、より深刻な絶望のなかに引きずり込まれてしまう。


絶望は他者が求める自分の姿と、
自分が求める自分の姿が違うことから始まる。

だから1人で解決することが難しい。
絶望したら他者に助けを借りなければならない。

しかし私は閉鎖の中にいた。
閉鎖された空間
閉鎖された人間関係
閉鎖が自己のことを誰にも話さなくさせる。
たった1人の人にも自らの罪を打ち明けることをせず、感情を抑制する。

絶望したら祈って本当の神からの赦しを得なければならないし、呪いは関係性なので他者に解除してもらうことでしか救われない。

そして可能性が唯一の救済者であり、可能性なしには人間は呼吸することができない。
呼吸は体が生きようとすることで、しかし死のうと思っても自ら止めることはできない。
可能性が見えなくなった時、私は絶望した。

だから私は可能性を教えられて、また呼吸することができたから救われた。

呼吸が止まったら心肺蘇生を試してくれる人の存在が必要である。
その存在は救世主となる。

絶望は優越か欠陥か

絶望することができるというのは動物よりも高等な生物だから優越である。
しかし、現実の絶望は最大の不幸、悲惨、堕落であることから欠陥とも言える。

絶望者は"何か"について絶望しているのであるが、それはほんの一瞬の出来事で本当は自己自身について絶望している。

そうなりたいと願っていたのに、そうなれなかった時、ヒトは絶望する。

例えば"帝王か然らずんば無"である。
この絶望は、帝王にならなかった(なれなかった)事象に絶望するのではなく、帝王にならなかった彼自身に絶望をする。
自分に絶望すると、自分が未来に続いていく限り、絶望をし続けることとなる。

私の絶望の大元もここにある。
あの時の禁忌を犯した自分に絶望をし続けている。
一度躓き、底まで落ちた。

健康とは矛盾を解消する能力である

健康な身体は呼吸を意識しないで過ごせる。
呼吸は精神が死のうと思っても、体が生きようとするため、矛盾である。
心臓を自らの力で止めることができないように、呼吸もまた同じである。

だから健康であることはとても大切である。
衣食住は健康に必要だし、そもそも身体を動かすことや楽しむことも健康に必要である。

死にたいという気持ちと生きたいという身体の矛盾を解消する能力も健康には欠かせない。
呼吸をわざわざ意識しないように、"死にたい"などと思わないのが健康である。


健康は素晴らしい。
病に罹らないと健康のありがたみがわからない。

私は最近筋トレもしているし、食事にも気を使って、睡眠もとれている。
健康なのでとても嬉しい。

可能性

まるでそこから逃げ出せる可能性がわずかでもあると信じているかのように、救いの手が差し伸べられるのを待ち続け、ラットは泳ぎ続けることとなる。
結果は絶対に助からない。

諦めない精神は祈りである。
ラットが何時間泳いだところで、助かりはしない。
その時に諦めるラットと、諦めないラット。
そこで理解できることは、希望は動物の生きる力を最後まで駆り立てるということである。

その美しさを自らが放棄しないようにすることが大切であり、それはそもそも呪われないための手段でもある。
そしてもし躓いて沈んでしまったら、早々に謝罪ではなく祈りが必要である。

生活保護がある日本において電車がとてもよく止まるのは、救われたいからであろうか。

たった1人の人にでも、その絶望の内を打ち明けることができたのなら、当人は緊張がぐっと弛むか、ぐったりと深く気落ちするかして、もはや自殺という行為を遂行する気力がなくなるであろう。

絶対の秘密に比較すれば、"1人でも"それを知ってくれる人のある秘密というものは、調子が和らぐ。

しかしそれは悪魔的な自己矛盾である。
自分の秘密を知る人を持たないことも、持つことも苦悩である。
過去の全てを肯定をされないかぎり。

救済者

悩んでいる者は、もしも誰かが救ってくれる者がいさえすれば、誰彼構わず救いを得ようとするというわけではない。

悩んでいる者は、"自分はこういうふうに救ってもらいたい"という色々な想いがある。
この仕方が、救う者と救われる者の間で合致することが大切である。
そうでなければ、より深く殻に籠ることとなる。

救済者の手の中では、自己はほとんど無に等しいものでなければならない。
或いは単に他の人間の前に自分の身を屈しなければならないというだけのことにしても、救済を求める限り、私自身であることを放棄しなければならない。

これは屈辱である。

どんなに深刻な悩みであれ、この屈辱に比べれば耐えられる苦悩であるために、私自身として存在が許されるならば、苦悩を抱える方を選ぶ。
受け止めきれる愛がなければ、それは屈辱でしかない。

絶望して、自己自身であろうと欲するところの自己は、自分の具体的自己から除き去ることはできない苦悩のために、呻吟する。

私はこの苦悩に向かって私の全情熱を注ぎかけるために、それがついには悪魔的な狂暴となったことがある。
後から救いの手を差し伸べられても、受け入れられない。
時間の流れがフェーズを変える。
全世界、全存在から不当な扱いを受けている人間のままでいたいと思ってしまった。

奪い去られない苦悩が大切で、そうでないと、私が正しかったことの証拠にならない。
自分に納得させることもできない。

だから永遠の不安と悲しみを抱くこととなる。

私は私自身であろうと欲する。
しかし、私自身であることはもうできなかった。

おまけ ベアリングの記憶

ベアリングとは回転するものを作る時に用いられる部品である。
釣りのリールにも使われているのではないかと思う。
私が高校生の頃に率いた風力発電機のチームが、発電機を作る時に使用した。
女子高生チームが理系のコンペに出ること自体珍しかったので注目を浴びて賞と賞金を頂けた。
その時に、ただ面白さと思い出を求めて物理の先生と買い出しをしに行って、買ったもののなかの一つである。

その当時にまつわる様々なことが、辛い記憶として奥底に封印したためになかなか思い出せない。
絶望の大元である。

記憶に蓋がかかる。
単語すらも思い出せない。
そもそも"ベアリング"という単語自体が日常的に使用するものでないからかもしれないが、言葉を失ったことに動揺を隠せなかった。

当時は、これがあるからスムーズに回転できて発電できるんだとあんなに感動をしていたのにも関わらず、名前が全く思い出せなかった。
それは苦しい記憶とセットになっているからかもしれない。

私に啓示するかのように、遠回りに絶望の大元へ私の思考を誘う。

例えばサイダーハウスルールという映画。

大切な人のために火の中に入れるかどうかの話は前回の記事の中に書いたが、それに触れなければ私はキェルケゴールのこの本に手を伸ばしてはいなかったであろう。

ベアリング
サイダーハウスルール
キェルケゴール
不思議で、誰にも伝わらない個人的な面白い啓示の話

私は絶望によって、深淵に引き摺り込まれそうになっていたことがある。
その絶望の記憶が呪いと化したことがあるが、今はその扱い方を学んだ。

呪いを解いてくれようとした人が現れたのは、ただ幸運でしかなく、感謝しかない。

ずっとそばにいてくれて、受け止めてくれる。
そんな人がいた幸せ。

罪の反対

罪の反対は"徳"ではない。

罪の反対は、信仰である。

なぜ信仰なのかは、ロマ書十四章二三節に「すべて信仰によらぬことは罪なり」と語られていて、キリスト教全体の最も決定的な規定に属することだからである。
罪の定義が躓きの可能性を含むからである。

躓くことのないように、転ばずに生きていくのが1番いい。

転ぶ前に杖などの転倒防止グッズを用意しておくことも、とてもよい方法である。

"我思う故に我あり"はデカルトの、思っている自分がいることは絶対的に正しいという思惟が存在であるが、キリスト教では、"汝の信ずるごとく汝になれ"ということは信仰が存在である。

自分自身になることを欲する。

欲することは重要である。

欲すると、欲し方を間違えなければ大抵のものは手に入る仕組みに世界はなっているから面白い。
私は失ったものも多いが、そのかわりなぜか手に入ったものも多い。

だから世界においては正しさを欲することが重要であると思う。
正しくあることの重要性
私は愚かだから違えやすい。

罪とは、人間が正しいことを理解しなかったからではなく、欲さなかったから起こる。
自己自身であることを欲さなければならない。

フルーツバスケットという漫画を思春期に愛読し、主人公透くんみたいになりたいと思ったことがある。
数多くの引っ越しとともに私の私物はほとんど全て捨てられていてその漫画も例外ではなかったが、とても大好きな漫画である。

牧師

牧師とは教区・教会を管理し、信仰を指導する信徒の代表である。
牧師は信仰者である。

信仰者とは、要するに恋する者である。
例え恋するすべての人々のうちで最も熱烈に恋している者であっても、信仰者に比べればその情熱の点ではただの未熟な若者に過ぎない。

1人の恋している者を考える。
毎日昼夜問わず語ることができるのは、恋をしていなければできない。
そんな人になりたい。
恋の相手は人であってもいいし、何か特定の対象物であってもいい。

そんな人がいてくれたから救われた。

我が闘争

堀江貴文さんが好きだ。
芸能人はあまりよく知らないけれど、彼のことは何故だか気になっている。
キリスト教的英雄精神を持っているからだと思う。

自分を貫く精神
自分が自分であるという生き方を持っている
個人が生きる。その強さはすごい。
神の前、大勢の前で、罪や弱さを記載する。
孤独と普通の人は味わえない底を知っているけれど、その絶望を消化する力がある。

彼は強い。
もともと強かったわけではないと思うが、だから気になるし好きである。
強靭な胃腸を持っているから好きなのかも知れない。
彼には、幸せであれと思うと同時に、幸せであると思うし、羨ましい。

それは健康だからだ。
ちゃんと絶望を消化する力をもっていて
今もなお可能性を広げている。

可能性は呼吸である。
生きるために必要だから、わたしも追い求める必要があるのかも知れない。

哲学

これで私の今年の哲学は終わりにしようと思う。
それは地図を手に入れることができたからである。
以前は地図を持たずに旅に出て迷った。
私は見切り発車すればなんとかなる精神で生きてきた。
しかし、コンパスや地図は生きていくために必要であることに気がついた。 

労働、仕事、活動

労働は生命や生活維持のため必要に迫られてやるものであり、
仕事は人間ならではの何かを生み出すもので、
活動は社会や芸術や歴史を作ったりする政治であるのだが、

もう一つ

本質を洞察する観照生活がある。
この生活は豊かである。
哲学は知を愛する学問である。
それは豊かでないとできないことでもある。

神の啓示に従って豊かなうちに哲学できてよかった。

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